自分を見つめるというのは、自分の嫌な部分を見つめるということでもあり、とても辛い作業になることもあります。
嫌な部分というのは「未熟さ・弱さ」、あるいは「不完全さ」とも言えます。
しかし、私達の誰もが「不完全さ」を抱いています。
「完全な人」などは存在しません。
故に「依存症」の人に限ったことではありません。
そして自分を省みる、内観するという作業が出来るということは、その人が「心身共に生きている」ことの証です。
内観とは嫌な部分、あるいは不完全な部分のみを見つめる作業ではありません。
その「不完全さ」を抱きながら、それを補うその他の「素晴らしい力・能力」が備わっていることにも目を向ける必要性があります。
なぜなら、その人が今まで心身共に生きてこられたのは、このような「補う力・能力」が無意識ながらも発出されていたからです。
【 闇を減らし光を強める 】
「不完全さ」は「闇」と表現される場合もあります。
しかし、「光」に照らされてこそ「闇」は浮かび上がります。
「闇」を感じた時は、実は、常に「光」に照らされています。
この「光」こそが「補う力・能力」かもしれません。
「闇」と向き合っていくには、
「闇」を減らす あるいは 「光」を強める
など色々なことが考えられます。
「違法薬物」の依存から、立派に新たな人生をスタートさせている人々も大勢いらっしゃいます。
希望、そして、可能性というのは常に存在しています!!!
今回は長くなりましたが、決して私達と無縁のことではなく、そして同じ轍を踏まぬよう、見る・聞く出来事から何かを掴み取れるよう進めてきましたが、とても大切なことですので、よろしければ皆さんも自分なりに考えてみて下さい、、、
【 余談:必要とされるのは倖せな事でもある 】
ここは余談ですが、清原 氏の心の中には逮捕されたくないとの思いと同時に、見つけてくれてホッとしている思いもあるように感じます。
プロ野球の世界ではファンの声援に応えるために打ち、そして自らのために打つということを上手くミックス出来ていたことと思います。
しかし引退後、プライベート、プロ野球界において「自分は必要とされていない」、、、
そして、それが「社会からも自分は必要とされていない」、、、と思うに至ってしまったのではと感じます。
実際には気に掛けてくれる知人や、手を差し伸べてくれる人々もいらっしゃったと思います。
ただ、それに気づくことが出来ていなかっただけなのかもしれません。
これから先の人生の再スタートには困難も伴うことと思いますが、人間・社会との隔絶が一番怖い所であるかもしれません。
まずは自分のために生き、そして、それと同時に周囲の人々の見守りも含め「自分は必要な人間だ」と思えるように、そして、改めて生き直すことが出来るように、正しい方向に向かって生き抜いて欲しいと思います、、、
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