対立する意見に光明を見出すには ~ビタミン発見の経緯から~

そして1908年、陸軍は「臨時脚気病調査会」を設立しますが、この会は海軍の軍医もメンバーとして含まれてはいましたが、その多くが東京帝国大学医学部教授で《 占められている 》ものであり、《 案の定 》初代会長も森という有様でした。

そして、森は来日していた細菌学者のコッホに脚気の研究法を相談しますが、コッホは日本における脚気は伝染病としての脚気と、栄養不足の脚気の2種類あるのではと森に話し、当時のオランダ領であるジャカルタでベリベリと呼ばれる脚気と似たような病気があるから調べてみるように森にアドバイスをしました。

 

そこで森は現地へ調査員を派遣しますが、実際に赴いてみると現地ではベリベリ患者はほとんどいなくなっていました。
と言うのも、オランダ人の医師であり生理学者のフレインスエイクマン(エイクマンは後の1929年にノーベル賞を受賞)の二人が高木の研究を《 更に発展させ 》、ベリベリ患者には玄米や豆を食す事で効果がある事を明らかにし、それらを食べさせる事で脚気を撃退していたという《 事実 》がありました。

そして、二人の発想の元となったのが、玄米には含まれるが一方の白米では失われてしまう米糠(こめぬか)の中に脚気を防ぐ未知の成分があるのではないかと《 推察 》していた点にありました。
そして、帰国した調査員は米糠が脚気に有効であるとの報告をしますが、調査会ではそれを支持する者はおらず、《 逆に 》調査員は罷免されてしまいました、、、

 

ここで《 突破口を開いた 》のが医学とは全く異なる分野の農学者である鈴木 梅太郎でした。
鈴木は東京帝国大学農科大学(後の東京大学農学部)の教授に就任し、先の二人の研究から米糠に着目し、脚気を防ぐ成分を抽出する事に成功し「アンチ・ベリベリ(脚気に対抗する)」との意味から「アベリ酸」と名付け、1911年に鈴木は森が率いる先の脚気の調査会でアベリ酸は生きていく上で必要不可欠な全く新しい栄養素であると発表します。

しかし、調査会のメンバーである多くの医学部出身者達は農学者でしかない鈴木に《 冷淡な態度 》を取り続け、そのような中でも鈴木はアベリ酸を臨床試験で使って欲しいと《 懇願 》しますが、ここでも《 やはり聞く耳を持って貰えずに 》終わりました。

 

その後の鈴木は1912年にドイツの科学雑誌に論文を発表し、その中でアベリ酸を「オリザニン」と改名しますが(ちなみに「オリザ」とはラテン語で「米」を意味しています)、鈴木の発表の半年前にポーランド人の生化学者であるフンクが同じ趣旨の論文を既に発表しており、成分としての「Vital = 生命に必要な」という意味で「ビタミン」という言葉がこの論文で初めて使われるようになりました。

そして、森はフンクの論文の2年後に医学書を発行しますが、その中でも《 未だに 》脚気は伝染病(細菌説を支持)であると分類していました、、、

そして、1922年に森は60歳で死去しますが、その2年後に先の調査会は脚気の原因はビタミンの欠乏であると《 認め 》、その任を終えました、、、

 

ちなみに、後に鈴木が米の栄養に関しての講演会を行った時の聴衆の一人として高木も出席をしており、その際に高木は鈴木に《 激励の言葉 》を掛けたとの話も残っているそうです、、、

そして、かつて南極大陸に送った探査隊が脚気に悩まされていたイギリスは、南極大陸の一つの岬を「高木岬」と名付けました、、、

 

では、番組からの紹介もここで終了ですが、当然ながら今回は学閥の問題やノーベル賞級の発見などに焦点を当てる趣旨では全くございません(笑)

その上で、シンプルに締め括りをさせて頂きます!!!