誰かや何かの為にという真の動機 ~刑法学者:團藤重光ノートから鶴の一声を考える~

では、話を今回の訴訟に戻しますが、1978年5月22日、團藤 氏が所属する最高裁第一小法廷は口頭弁論などを結審し、9月頃の判決見込みに進む段取りとなっていきました。

が、しかし、奇妙な事に、この判決の直前に最高裁は2度に渡って審理のやり直しをしており、その後に当初と結論が覆ってしまった理由(経緯)などが團藤 氏のノートに書かれており、その内幕が今回明らかとなりました、、、

 

そして、判決言い渡しの目前、第一小法廷では和解での決着の選択肢も同時に探っており、住民側の弁護団も内容次第では応じる構えを見せており、5月29日から和解協議が始まっていきます。
そして、この時の第一小法廷の裁判長から聞いた和解協議の内容も團藤 氏はノートに記しておりましたが、ノートを元に再現すると次のような内容となります、、、

 

裁判長は仮に判決があったとしても国(政府)が解決の責任を負うのが当然であり、現状の夜9時以降の差し止めをしているのを変える事は出来ないのが和解内容の前提であると考えていましたが、国(政府)の代理人である法務省はいわゆる総論賛成各論反対であり、夜間の飛行差し止めは認められないと反対します。

そして、2回目の和解協議では特に運輸省も関係してくる事や、航空機の運航は公共性も高く、他国の航空機の乗り入れにも関係してくるなどを理由とし、法務省の態度が更に硬化して(和解を受け入れない)いきました。

そして、裁判長は6月28日に和解を打ち切る事を決断し、第一小法廷はそれまでに固めていた判決を9月に出す方向に舵を切っていきます、、、

が、しかし、この後に事態は大きく動く事になってしまいます、、、

 

では、ここで少し小休止致しましょう(笑)
どうでしょうか、ここ迄の内容は難しかったでしょうか???
難しく感じた面もあった事でしょうが、何となく團藤 氏を始めとする現場の判事達の当初の見解が《 何かしらの理由 》で崩され始めて来ている点を捉えて頂けていればそれで充分です!!!

 

では、進めて参りますが、その事態が大きく動いたというのが最高裁での「大法廷回付」というものでした。
この大法廷回付というのは、小法廷から大法廷に審理の場を移し、この大法廷というのは15人全員の判事で審理のやり直しをするという仕組みになります。
そして、最高裁の規則では大法廷回付の要件として次の4つが定められています。

 

○ 憲法判断をする場合
○ 判例を変更する場合
○ 小法廷で意見が2つ同数に割れた場合
○ 小法廷が相当と認めた場合

 

つまり、これらの要件に照らし合わせて、大法廷回付をするかどうかは担当の小法廷が《 主体となって判断する 》という仕組みになっています。
そして、この時の第一小法廷で何が起こっていたのかについても團藤 氏はノートに書き記しておりましたが、ノートを再現すると次のような内容でした、、、

 

第一小法廷の裁判長は7月18日付けで国(政府)から大法廷へ審理を移すようにとの上申書が提出されたと團藤 氏等に告げました。
ちなみに、このような国(政府)の上申などもこれまでに前例が無く、、、異例中の異例の事でした、、、

そして、結論としては大法廷回付が決定されますが、この決定に際して当時の最高裁長官の《 意向 》が働いたと言われており、実際にその後にご本人も認める旨を示唆する発言が残っておりますが、先程ご紹介致しましたように『 これらの要件に照らし合わせて、大法廷回付をするかどうかは担当の小法廷が《 主体となって判断する 》という仕組み 』が《 筋(規則) 》であります、、、

 

更に團藤 氏のノートによると、第一小法廷の裁判長が最高裁長官の元を訪れた所、そこには第二小法廷と第三小法廷の裁判長も同席しており、話し合っている最中に長官室に一本の電話が掛かって来ました。

そして、長官は第一小法廷の裁判長に受話器を渡した所、その電話を掛けてきた相手は法務省の要職を長く勤めた経歴を持ち、今回の訴訟における法務省の《 意を受けた 》元最高裁長官であり、立場上は国(政府)側の代理人で無いにも関わらず大法廷回付の要望を告げてきた内容でした、、、

この話を聞いた團藤 氏はノートに次のように書き残しております、、、

ノート:
『 この種の介入は怪(け)しからぬことだ。 (判決目前の)今になっての上申は好ましくない。 和解の進め方をみて(国側に)不利とみてこの挙に出たのだろう。 引き延ばし作戦でもあろうし、むしろ、実質的には忌避の感じさえする。 』

 

こうした経緯があり、團藤 氏達は第一小法廷の裁判長に一任する事と相成っていきます、、、