朱に交われば赤くなる事の危険性 ~同調圧力も含めた善悪功罪という両面~

そして、戦争に使う弾薬などを作る為に家庭内にある金属類までもが没収されていた状況を振り返り、先程の久保三也子さんが仰っていた事です。

 

久保三也子さん:
『 厳しかったよ、もうお互いがお互いを見ててん。
  「あそこ(の家には)もっと(鍋などが)あったはずや」言われる時あるもん。
  隣同士だったら分かるもん。
  「あそこ隠してはるで」それが嫌で皆出しとったわ。

  結局、お互いがお互いを(足の)引っ張り合ってやってたんちゃう。
  なってしまうのよ、どうしてもね
  村八分になったら食べていかれへんもんね。 』

 

そして、先程の旧 松尾村の国防婦人会でも、状況は更に逼迫悪化の一途を辿っていました。

 

母親が活動をしていた娘さんの話:(後藤繁子さん:92歳)
『 (母は)口を封じられた訳じゃなくて、そういう余分な事(戦争への不平や不満など)を言うと、大変な事になるんじゃない。
  へらへらしていれば丸く収まるやつを、反対したりすれば自分の心にはいいんだけど、やっぱりそれは、この今の世の世情に従わなければしょうがない 』

 

そして、この後の1941年には太平洋戦争が開戦してしまいます。
この時には国防婦人会は他の女性団体と統合され、約2,000万人が所属する大日本婦人会へと変わっていきます。
そして、国は女性達に兵士となり得る男子を産み増やせとの役割(価値観など)を、より強く押しつけていく事になります。

 

息子さんはいないが活動していた母親の娘さん:(梅本多鶴子さん:87歳)
『 (婦人会の集まりで)「あんたの所は戦争にも行っとらんのやから、偉そうなこと言うたらあかんよ」という風な口ぶりで(母が)言われたらしいです。
  戦争にいったうち(お家)は「うちは偉いもんや」という気持ちがありますね。
  「子どもとか主人とか、命を捧げに行っているから、うちは大したもんや」という。
  だけど行かない方は、それを言われると、もう一番辛いですわね。

  女としてね、親として、戦争に一人でも出していたら一人前や。
  だけど女の子で、戦争に誰も出さなかったら半人前以下

  戦争ですよ、やっぱり。
  心の戦争やったと思います。 』

 

そして、その後も戦局は悪化の一途を辿りながらも、特に若い男性はどんどん戦地に送られていきます。
更に、先程の旧 松尾村では徴兵年齢に満たない子ども達までをも対象とし、まるで《 ノルマ 》のように人数を割り当てられ、婦人会の女性達は家々を個別に訪問し、戦争に参加する兵士を募(つの)るようになっていきました。
それについて、先程の後藤繁子さんが次の事を述べておりました。

 

後藤繁子さん:
『 各家庭に出征する戦士の子どもというか、卵のようなものがいる訳だけど、戦争に行く、そういう人を推薦したり、それから勧めたり、そうやって戦争に加担して、戦争に協力したわけ。 』

 

そして会の活動に参加していた母親達の元にも、自らの息子さん達の戦死の知らせが相次いで届く状況になっていきます。
それについても、先程の三好三重子さんが仰っておられます。

 

三好三重子さん:
『 涙を見せる女性は言うも悲しき、情けない女という事になる。
  自分の胸の中に収めておくという、そういう戦争中の女性の思いやわね。
  今の世の中では情のない人間に思われるけれど、当時はしっかりとした母親やったって褒められる。 』

 

そして、日本各地が戦禍に晒され続けていく中、1945年6月に大日本婦人会は解散しますが、その理由は、、、女性達も本土決戦に備えるように、、、との《 国の命令 》によるものでした、、、

そして、ご存じの方も多いかと思われますが、この頃には沖縄戦が始まり、日本の軍人による日本人への略奪も行われたり、あらぬ疑いで一般人がすぐに同じ日本人の手によって射殺されてしまったりといった事が相次ぎ、、、その後は広島と長崎への原爆投下へ、、、