朱に交われば赤くなる事の危険性 ~同調圧力も含めた善悪功罪という両面~

また、現在の長野県飯田市(旧 松尾村)でも資料が見つかります。
当時は松尾女子会と称される組織があり、女性同士の助け合いの場であったものが、《 ある時 》を境に国防婦人会と改められ、次第に戦争に関わる活動が増えていきます。

 

母親が活動をし、自らも徴兵された息子さんの話:(江塚栄司さん:97歳)
『 父親の方は「女がしゃしゃり出るような家(うち)はダメになる」とか言って。
  それでも、やっぱり世間体っちゅうか、義務っちゅうかな、やらなんだったら役に立たないと言われるし。

  ここで(集会所で)戦意高揚の講演会だとか、ありとあらゆる事に使っておりました。
  時局講演で戦意高揚を「婦人が家を守り、国を守るんだ」っていうような事も、お偉い方、婦人会のお偉い方達がお話をしてくれて、それで、(母は)感心して帰って来たけど。 』

 

このように国防婦人会を監督下(コントロール下)に置くことに成功した陸軍ですが、その中井良太郎 大佐の資料には次の事が残されています。

 

《 よき子を生んで、之(これ)を忠良なる臣民に仕立て、喜んで国防上の御用に立てる。 家族制度の本義に基く、女子に与えられました護国の基礎的努めです。 》

 

そして、更に陸軍は国防婦人会に文化や風習の異なる人々に愛国心を持たせるよう仕向けていきますが、それは例えば標準語の推奨であったりも含まれていました。
そして日本国内では沖縄、アイヌ民族、更に海外では満州、朝鮮、台湾へと活動を広げていき、こうして陸軍は国防婦人会の女性達を通して全国津々浦々に入り込み、戦争への協力体制(実際は強制)を築いていきます、、、

 

そして1937年に日中戦争が勃発し、日本軍が次々と主要都市を占領していき、戦線が拡大の一途を遂げる中、日本国内での熱狂は勿論、国防婦人会の活動も更なる《 熱を帯びて 》いきます。
このような状況に呼応して、戦争に動員される兵士達も増加していきます。

 

息子3人が徴兵されたが活動していた母親の娘さん(息子さんとは兄弟姉妹):(三好三重子さん:93歳)
『 はじめは(母も)誇らしかったやろうね。
  「力つけて良かったやない」って、やっぱり嬉しかったと思うよね。
  送り出すまでは勇気そのもの、歓喜、喜びそのもの、元気で行くんだよ。

  ここの(お家の)門の所で兄がぱっと敬礼するのを(母は)ずっと、お辞儀したまんま、しばらくうつむいとって、頭を上げたら、そのままずっと兄が行くのを見送っているっていう。
  ここから(お家から)一歩も門の外へ出えへんだですね。
  (母の)本心は国のためにと思うけれど、国のために死んでもええまで考えたかどうかは、ちょっと、、、

  戦争に出掛けて行って働くのは男ばっかりじゃないぞ、女も働けよと、こういう事で、国防婦人会でパッとたすき掛けて行ってくるからって玄関出る時の母は別人のように思いましたね。
  私(母)が出来る事は国防婦人会を一生懸命育てる事、それ一心でやってたと思います。 』

 

そして、この日中戦争の長期化により、国防婦人会の会員数は1,000万人へと急増していき、国は1938年全ての国力や資源などを戦争に注ぎ込む国家総動員法を制定させ、いわゆる『 贅沢は敵だ 』などの《 風潮が煽られて 》いきました。
ここでは国防婦人会の機関誌などを通して、戦争に不平や不満を言わせず、主婦達には料理を工夫しろなどの指示も出されていました。

そして、この頃には戦争に反対していた先の市川房枝 氏も《 世の中の空気 》に抗(あらが)えなくなっており、、、

 

《 ここ迄来てしまった以上、最早(もはや)行く所迄行くより外あるまい。 消費の統制、節約運動については消費者である婦人の協力なくしては全く不可能である事を、政府をして認識せしめなくてはならない。 悲しみ、苦しみを噛みしめて婦人の護るべき部署に就こう。 》

 

と述べております。