この組織の活動開始のキッカケとなったのが、日本が中国東北部で軍事侵攻を開始していった1931年の満州事変にありました。
が、しかし、この時にはまだ日本国内における国民生活には戦争の影響はほとんど出ておらず、今まで通りの暮らしを国民は送っていました。
このような折、後に国防婦人会を立ち上げしたとされている、大阪の港町の主婦であった安田せい 氏という方が、見送りもされずに出征していく兵士達を《 不憫 》に思い、お茶を振る舞っていた事から、このような活動が後の国防婦人会に結び付いていく事になっていきます、、、
そして1932年に大阪国防婦人会が正式に設立され、《 台所から街頭へ 》をスローガンにし、戦争への協力を求める募金活動などを行い、女性達へ参加を促していきます。
そして、わずか2年足らずで会員数は40人から45万人にまで膨れ上がっていきました。
と、ここで当時30代で国防婦人会の活動に熱心に取り組んでいた片桐ヨシノ 氏という方の肉声のテープが残されており、彼女は結婚後、夫の家に入り二人の子どもを育てていました。
片桐ヨシノ 氏:
『 夜の夜中も帰って来ない事がありました。
心の底からの国防婦人会でしょうね。
お姑さんには絶対、頭が上がりませんので。
お姑さんには、私は絶対服従でございましたからね。
大阪駅のホームのベンチで夜を明かす時があるんですよ。
夜、長い輸送列車とか駅に入って来るんですよ。
(兵士達が)「大阪じゃ、大阪じゃ」言うて降りて来てね、「兵隊さん、お水もお湯もありますから」って、タバコを持っていって上げたりね、色んな事しましたよ、実際。
毎日毎日、明日はよう出ないと帰って来るけど、目が開くと、やっぱり行かなきゃいかんと思ってね、行くんですよ。
来る日も来る日も、カラスの鳴かん日はあっても、片桐さんが来ない日はないくらいに行ったもんです。 』
このような当時の家庭内における女性の立場や状況の折、国防婦人会からの勧誘を受け、お国のために自分にも出来る事や役立つ事があると思い、会の活動にのめり込んでいったそうです。
そして、当時は女性には参政権もなく、ましてや大衆を目の前にして女性が意見を言える場も機会も皆無と言っても過言ではありませんでした。
母親が活動をしていた娘さんの話:(久保三也子さん:92歳)
『 一生懸命になると思うよ。
それまで母親なんか出番がなかったもん。
投票権も何もないし、女は台所で黙々と働くのが女やと思って。
(女は)生まれて親に従え、嫁しては夫に従え、老いては子に従えでしょ。
男性の方が優位やったいう、そんな時代。 』
つまり、日本の歴史上初めてと言ってもいい程の、国防婦人会というのは日本国内では女性が社会参加出来る場となっていきました。
しかし、この会の立ち上げに際し、婦人参政権や女性の地位向上などの運動をしていた市川房枝 氏などは会の活動に批判の目を向けていました。
その市川 氏が率いる団体が表明したのが次のような内容です。
《 日本国防婦人会なる黒シャツ婦人団体が近く大々的発会式をあげるそうだ。 右へ右へと草木はナビク、、、、、か 》
そして、このような国防婦人会の活動に目を付けたのが当時の陸軍の幹部達でもありました。
そして、これを裏付ける陸軍の《 思惑 》が書かれている資料も見つかっており、国防婦人会に対し戦争における国民の不満などを抑える役割を期待していた事が判明しています。
このように、陸軍の協力や後ろ盾を得て、国防婦人会は大阪と東京に本部が作られ、その後、大日本国防婦人会として全国へ拡大していきます、、、