魂の視点ではカカア天下が望ましい!? ~レディ・サピエンス&司馬遼太郎 氏の妻から~

『 私はうまれついての魚嫌いで、料理屋で出される純日本式の料理などはまったく手がつかないし、タイの焼死体などをみると、もうそれだけで胸がわるくなるのである。
  幼いころは、他家へ行って、前のものを食えといわれるのが苦痛だった。
  自然、魚が食えないという一事だけで、ひどい劣等感をもたされてしまっているから、宴席などで「ああ、あなたはこれが食えないのですか」といわれると、ついひらき直って逆襲してしまうことになるのである。
  これは食いつめ者の心理に似ている。

  女房をもらうとき、彼女はなんと魚は見るのもきらいだということがわかった。
  これだけでももらう価値があると、私は確信した。
  差しむかいで魚をバリバリと食われては、まるで食人種と食卓を囲んでいるようで想像するだにゾッとしていたのである。
  「だけどあたしは、料理なんか一種目しか知らないんですのよ」。
  「ああそれでもリッパです」。
  まったくうわのそらで、この得難き人物をもらった。

 

新婚旅行は、ひなびた海辺の町へ行った。
  旅館には他に泊り客がなく、あるじの老夫妻がまるで縁戚の者がきたように心からもてなしてくれた。
  やがて入ってきて、夕食がすこしおくれますという。
  「夜になるとタイ網に行った漁船が帰ってくるのです。 その中から形のいいのをよって、あがっていただきます」。
  まことに誠意をオモテに出していうのである。
  私は死ぬような思いで、「どうぞ」と答えた。

  その夜タイが出た。
  彼女と最初に食卓を囲んだ記念すべき夜であったが、きょう宴が始まる前に二人がまずしたことは新聞紙をとりだすことであった。
  ソッとタイをくるみ、窓から海辺へぬけだして、波のかなたへすてたのである。
  むろん食卓のうえの二つの皿は、カラになっている。
  旅館のあるじにすれば、果せるかな自分たちの好意がむくいられたと思ったに相違ない。
  この新しい夫婦の客は、感激のあまりアタマもホネもたべてしまったことは、カラの皿で容易に想像できるからである。

 

やがて彼女の、一種しか料理できないというその貴重な料理を、胃の腑がうけつけなくなるほど食べさせられる毎日がつづきはじめた。
  フライパンを火であぶる。
  バターを入れる。
  そこへ東京ネギと牛肉をほうりこむというだけの細工なのである。
  これが連日連夜つづいたが、しかし私は歯をくいしばっても苦情をいわなかった。

  彼女は魚がきらいという、ただそれだけで私は大いなる安心がもてたし、その線で満足をすべきだと固く自らに誓っていたからである。
  彼女は天才的な料理不器用であり、むしろ百万人に一人というその稀少さにおいて、それは才能とさえいうべきものであった。
  私はその天才的な不器用さを、よろこんで甘受した。

 

しかし、天才も時に挫折するものとみえて、ついに不幸なときがきた。
  いくらなんでも、一種目の連続公演ではひどすぎると彼女は思ったらしいのである。
  そこに魔物がしのび入ったといっていいだろう。
  彼女は、デパートの食品部へ行って、錫箔料理法というじつに不器用者のために発明されたとしか思えないものを教えこまれた。
  二枚の錫箔を食品部で買えばことは足りるのである。

  なにげなくショーウインドをのぞきこんで、彼女はなんと鮭の切身を二きれだけ買った。
  それを錫箔でつつみ、フライパンのうえであぶる。
  切身は、錫箔のなかで蒸せる。
  それだけの手間ですむ。
  しかし彼女にすれば偉大なる大変革であった。
  私は目の前に出された二枚の皿をみて、彼女の苦心と誠意がひしひしとわかった。
  彼女は事もなくいった。

 

「鮭はだいじょうぶでしょう? あたしは食べられるから」。
  彼女にすれば、自分自身に照らして、魚ぎらいでも鮭だけは別だと思いこんでいるようなのである。
  私はそれを拒むことができなかった。
  死ぬような思いで笑顔をつくり、さもうまそうにそれを食った
  食いながら、これほどつらい料理が、私の人生で再びやってこないことを必死に祈りつづけたのである。 』

 

では、ここで終了です!
取りようによっては、究極の愚痴!?とも捉えられる事もあるのかもしれませんが(笑)
ただ、このお二人の姿を想像すると、とてもチャーミングなようにも感じます(笑)
ちなみに「錫箔」とは今で言う所のアルミホイルのようなものです!