迷信に魂の視点で斬り込んでみる!?(笑):前半 ~自己及び他者の観念を知り気づく~

○ 《 3人で写真を撮ると真ん中の人は早死にする 》

これは全く科学的にも医学的にも根拠は見い出せないのはお分かりになるかと思われます(笑)
ここには、真ん中の人は目立つ場所である事から、(もしかしたら)私は両側のお二人より早世かもしれませんので今回は有り難く真ん中で撮影させて頂きますとの「気(心)配り」や「謙遜」という意味が込められています。
言葉を変えれば「冥土の土産(として)」とも言えるかもしれません。
そして、これらは「思い」の中で行われておりますが、昔はこのような趣旨の事をちゃんと「言葉」に出して表現しておりました。

「言葉」だけで「思い」が伝わるものでもありませんが、「思い」だけで相手に伝わるものでもありません、、、

ちなみに、よく贈り物をする際には「つまらぬものですが(粗品ですが)」などの言葉を添えたりもしますが、これは相手に必要以上に負担を感じさせない為の「気遣い」の言葉でもあり、また、今では女性差別(蔑視)!との見方もされるかもしれませんが、「ふつつかな娘ですが」などの挨拶(口上)もありますが、これは(良い意味で)既に「死語」!?なのかもしれませんね(笑)

 

○ 《 雛人形を出しっ放しにしている(片付けない)と婚期が遅れる 》

これは雛人形(女性)に限らず、五月人形(男性)でも同様に当てはまるものです。
どちらも子どもの成長を願う親御さんの思いが込められている素敵なものではありますが、出しっ放し(片付けない)とは「未練(執着)」を指しています。
これを魂の視点で表現したものが、

 

子どもは親の所有物ではない

 

とのものになります。
そして、ご病気や事故等(自死も含め)で、幼くして他界される子どもさんもいらっしゃいます。
そのような場合では子ども部屋などを片付ける(あるいは整理する)のに躊躇(ためら)いを感じたり、今まで目にしていた光景が消えてしまう事により、益々寂しさや悲しさが募ってしまう事もあるかと思います。

このような場合におきましては「未練(執着)」と迄は言えませんが、親御さん等の心の整理が付く迄の間の、今少しの間はそのままのお部屋の状態にしていても宜しいですが、やはり、子どもさんの事を「想って」という気持ちが改めて芽生えて来た際には、処分をするものは処分をしたり、「誰か」の為に有効活用(再利用)出来る物は有効活用(再利用)したり、またお部屋はご家族等の為に開放し、そのお部屋を笑いの絶えない空間にしていく事が、子どもさんへの真の意味のご供養にもなります、、、

 

○ 《 霊柩車を見たら親指を隠す 》

これに関して私自身の事で言えば、更に「(霊柩車が通り過ぎる迄は)話してはいけない」との「尾ヒレ」が付いて覚えております(笑)
「死」というものは身近でありながらも、やはり、どこか「忌み嫌う(遠ざける)」という風潮が特に日本では強いです。

そして、ここでは文字通り「親指」となっている事から、親御さん(あるいは親御さんのように恩に着る人も含み)に関して普段はさほど気に掛けていなかったり、あるいは感謝を伝えたいとは思いつつも、その内(またの機会)でいいや!?などの「(不作為という)行動」を「省みる」為のメッセージとなっていると共に、親にはその上の「親(祖父母)」がおり、それが連綿と続いて来た事で「今の自分」があるとの「繋がり」と「重なり」の大切さ(奇跡)を示唆しているものです。

 

そして、これも以前のTOPICSで既にお伝え済みではありますが、アニメの一休さんの元となっている一休宗純という僧が『 幸せとは何か? 』と聞かれた時に、『 親死に、子死に、孫死に 』との順番で他界する(一時の別れをする)事が幸せ、、、つまり、現実においても、魂の視点においても、このような順番というのは必ずしもそうならない事もあり、「存在(しているだけで)の尊さ」という事も表しています。

ちなみに、この一休宗純はお正月に骸骨を棒に巻き付けて練り歩いていたとの逸話!?も残っておりますが、これは「朝に紅顔ありて夕べには白骨となる」という言葉を、今で言う所の「見える化」をしたものであるかもしれませんし、似たような視点としては「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」とのものもあります。

「今、ここ」を意識する事の大切さも含まれております、、、