「生き様」から考える真の動機 ~野口英世と私の歯科治療体験(笑)~

野口は今で言う所の結核菌や大腸菌やコレラ菌などの病原細菌学の研究をしておりました。
そして、時は1900年である24歳の時に単身で渡米し、ペンシルベニア大学の細菌学の教授であるサイモン・フレクスナー 氏の元を訪れ、フレクスナーは個人的に野口を雇う事になりました。

そのフレクスナーは1903年にロックフェラー医学研究所(現:ロックフェラー大学)の所長に就任し、野口を一等助手として招聘(へい)しました。
この頃は、梅毒が猛威を振るっていましたが、1905年に梅毒の病原体が発見された事で、その後の科学者達は梅毒の純粋培養(特定の病原体のみを増やす)の研究に取り組み始めていました。

そして、野口は1911年に梅毒の純粋培養に世界で一番最初に成功したと発表し、世界中から賞賛されるようになりました。
更に、その後も梅毒の診断法や、その症状に伴う進行麻痺(の原因を突き止めた)などの論文も発表し続けていきました、、、

 

しかし、この梅毒の病原体の純粋培養に至っては、「現在」の科学をもってしても、非常に困難であり、不可能である(との見解も多数)ともされており、「当時」においても実際には成功していなかった、、、と「現在」では考えられています
と、ここで野口 氏の名誉!?の為に補足致しますが、進行麻痺の原因を突き止めた論文は、「現在」の医学や科学でも正しかったとの評価を受けております。

 

そして、野口は次の研究対象を狂犬病に移していきました。
その後、間もなく、野口は狂犬病の病原体を発見したとフレクスナーに報告します。
しかし、フレクスナーは論文の発表を焦らずに、他の研究者にも「意見を聞く」ように指示しましたが、野口はそのような外部の研究者の意見に「耳を貸さなかった」、、、という状態でした。

そこで、フレクスナーは渋々ながら論文の発表を許可する事になりましたが、この時、発表後にも再検証を続ける事との条件を出しましたが、野口はこれにも「耳を貸さず」、、、この条件が守られる事はありませんでした。

 

そして「現在」では、狂犬病の病原体は細菌ではなく、それよりも遙かに微少なウイルスである事が判明しておりますが、このような微少なウイルスは、そもそも「当時」の顕微鏡では見る事が出来ないものでした。

このように、色々な紆余曲折を経ながらも、野口は正研究員に出世し、ノーベル賞候補の名前にも挙がるようになっていきました。
そして、1918年に野口は黄熱病の研究に取り組み始めるようになります、、、

 

この黄熱病は南米で流行しており、その時のアメリカの研究チームにより、黄熱病には蚊が媒介している事までは突き止められていましたが、病原体の特定には至っておりませんでした。

そこで野口は南米に自らで赴き、黄熱病の研究に取り掛かる事にしますが、その時の野口は黄熱病の症状と酷似しているワイル病の研究も「同時」にしておりました。
しかし、このような研究と並行して、一方では蚊を(その地域から)絶滅させ、感染拡大を防ぐ取り組みも行われていました。
つまり、感染が終息(収束)してしまえば、野口が取り組んでいる研究も(さほど)意味を成さないものになってしまう、という事も「同時」に意味しておりました、、、

そして、この黄熱病の研究方法なども巡り、色々と「忠告の声や意見」なども出されていましたが、この時にも、野口はそのような声に「耳を貸さない」、、、という状態が続けられていました。
そして、野口は僅か1ケ月程で、黄熱病の病原体を特定したとフレクスナーに報告します、、、

 

が、しかし、先のアメリカの研究チームが、黄熱病は人間以外の動物には感染しないとの検証結果を既に出しており、それは野口が動物実験で扱っていた動物も同様(に感染する事はない)でした。
つまり、「後に」判明してきますが、この時に野口が発見したのは、黄熱病の病原体ではなく、ワイル病の病原体であった、、、と。

そして、「当時」の野口自身は黄熱病の病原体を発見したと「思っていた」であろうとも推測されますが、その後すぐに野口は、黄熱病の病原体を特定したと発表し、黄熱病への抗体を作り出す為のワクチンを開発します。
そして、このワクチン開発についても、世界中から賞賛を浴びるようになりました。

が、しかし、これは野口ワクチンと呼ばれていますが、この時の南米では既に黄熱病の感染は終息(収束)しており、実際の所、この野口ワクチンの効果は確かめられる事はなく、その後の1924年にアフリカで黄熱病が発生した際には、野口ワクチンは全く効果を発揮せずに終わっておりました、、、