動物実験の是非を魂の視点から考えてみます ~本質を避けると視野が狭まる~ 

「人間」と「動物」では・・・

この、どれも(「三位」)が・・・

「性質」における違いがある・・・

 

という結論に結び付く事にもなります。
つまり、このような視点からは、動物実験で「動物」に効果があった(かもしれない)薬が、果たして「人間」にもそのまま当てはまるのか?そして、そのまま当てはまらないのであれば、本当に「動物実験」を行う事に意味や意義があるのか?という視点に自然に導かれてもいきます。

勿論、実際の流れにおいては、「動物実験」を経て、その後に「人間への治験」が行われて初めて(新)薬としての認可が下りるのも、重々理解しております。

そして、ここでも繰り返しで恐縮ですが、答えや正解というものではなく、皆さんにおいて「考える素材」としての視点の提供が趣旨であります。

 

また、「動物実験」が「非」であるのならば、「食する」のは「是、それとも、非」になるのか?という疑問やご質問が出て来るのも当然の事でもあります。
この「食する」という点に関しましても、先ほどの「ペットなどの動物の魂はどうなっているの?」で取り上げておりますので、詳細はお手数ですがそちらに目を通して頂ければ幸いですが、追加で一言付け加えるとすれば、それは、

 

(魂の)進化における「役割の違い」

 

との捉え方になります。
そして、このような事は、自然界における「動物」においても、自らの「命の成長と維持」の為に、他の「動物」(や「植物)」を「食する」事から明らかでもあります。

しかし、「動物」という自然界においては、自らの病気や怪我を癒す為に、「他の動物」へ「実験」を行う事はありません
これは「知性」や「知識」という観点とは全く別物です。
現に「動物」の中には、病気や怪我の際には、木の実や植物の葉などを食し、その後は、休息を取るという「行動」を取るケースが多い事からも見て取る事が出来ます。

 

そして、「動物実験」における状況においては、腫瘍を植え付けられたり、あるいは、脳に電極を差し込まれたマウスの姿などを目にした事がある方も多いかもしれませんし、また、「植物」においても、桜の枝などが無残にも引き裂かれたりしている光景などを目にすると、心に痛み(傷み)を感じませんでしょうか・・・?
そして、あくまで私個人の捉え方でもあり、少しキツイ表現を用いますと、このような光景や目に映る状況というのは、

 

現在の世の中や社会においては・・・

醜(みにく)いものを・・・醜(みにく)いと感じられなくなって来ており・・・

これは「感性」の欠如の映し出しでもあり・・・

次第に・・・

美しいものが分からなくなって来つつもある・・・

 

というのが率直な気持ちです。
では、少し視点を変えて次の話題に移ります。
それは、先日の3月18日の「報道1930」(BS-TBS)という番組でも取り上げられてもおりましたし、また、ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、本年の3月初めに、文部科学省が以下のような発表をしました。
それは、