意識の器(うつわ)と心のケア ~デカルトの心身二元論の真の意味も含め~ 

意識が主である

 

という点です。
先の二つの海外ドラマにおいては、体にとっては他の意識が移り変わることにより、肉体上の不自由さが解消され、そして、いったんは肉体上の死が宣告されながらも、他の意識が死の宣告を受けた肉体に宿ることにより「引き継ぎ」という生き返りと見られる現象が描かれています。

 

小説においては、「代体」が常時用意出来るようであれば、永遠に生きられるのか?というテーマも描かれています。

 

映画の「マトリックス」においては、意識を仮想現実というイメージに移動させることで、その仮想現実内での行動が可能となりますが、その仮想現実内で受けた体への衝撃は実際の肉体にも反映されるという点が描かれています。
実際に肉体には物理上の衝撃が加えられていないにも関わらず、仮想現実というイメージ内での意識への衝撃が肉体に反映されるというものです。

 

また、ドラマ「コピーフェイス」での出来事は、ある意味、実際に実現可能なことでもあります。
私達が外見上は全くの別人になりたいと思い美容整形を受ければ可能となります。
怪我などの理由や、生まれつきの容姿にコンプレックスを抱き、死を思い詰めてしまう程であれば、また、肉体という外見を変化させることで生き続ける意欲が出て来るのであれば、一概には否定は出来ないという事情もあることと思います。
そして、そのことによりその後の人生が輝いていくのであれば。
ただ、外見が変わろうともその人の個性・意識が自動的に変わるものではありませんので、やはり、その後の人生を輝かせていけるのはその人の個性たる意識かもしれません。

 

ところで、哲学者のデカルトという人がいました。
この人は「心身二元論」という説を提唱した人であり、この説は、「心と体は別のもの」という内容です。
この「心身二元論」とは、現在の近代科学における基礎の考えとなり、また、西洋医学の発展に寄与していると捉えられています。
私もその点は否定は致しません。
多大なる影響や利点も与えてくれている点もあると思います。

ただ、この考えが現在では少し取り違えて解釈されているように思えることもあります。
それは、デカルトが伝えたかったことは、

 

心と体は別のものである  という考えは成り立つが、

心が無い  とは言っていない

 

という点です。
ここでの心とは意識と同様の意味として捉えて頂いて構いません。
そして、このような説を提唱しながらもデカルトは次のような言葉も残しています。
それは、

 

我思う、故に我あり

 

と。
私の全くの個人的解釈ですが、私自身はこの言葉を、

 

先の「我」は「心・意識」  であり、

後の「我」は「肉体・体」  である

 

と捉えています。
つまり、

 

「心・意識」が思うことで「肉体・体」も存在し得る

 

と。
なぜなら、先の「我」を「肉体・体」とし、後の「我」を「心・意識」と逆に置き換えてみると、

 

「肉体・体」が思うことで、「心・意識」も存在し得る

 

というようになり、私には違和感を感じるからです。
この状態では、まるでホラー映画のゾンビを思い起こしてしまいます・・・
勿論、デカルトの本心も真実も今はまだ分かりませんが・・・

 

私達は「肉体・体」にはとても意識を向ける傾向があります。
アンチエイジングの流行や、TVのコマーシャルなどでサプリメントや健康食品などをよく見かけるのもそのような意識の表れかと思います。
そして、「肉体・体」を意識し、それをケアすることもとても大切なことです。
では、もし仮に今まで見てきたように、「意識・心」が主であるとすれば、