言葉の力とカルマ(業) ~関心とバランスを保つという良き種蒔きを~

第104回:『 言葉の力とカルマ(業) ~関心とバランスを保つという良き種蒔きを~ 』
【 参照キーワード:言霊、カルマ、業、政治資金規正法 】

S.Light.M(カウンセリング・ヒプノセラピー・レイキヒーリング)の瀬川です。

色々騒がせていた東京都知事の問題も辞職という展開で幕を引きそうでありますが、また、今回は「みみっちい・せこい」などもキーワードとして出ていましたが、台風一過のように今回の件をやり過ごしてしまうことも、それこそ「もったいない」と思いますので、「他山の石」として活用してみようとの思いから、そして、二度と同じことが無いようにとの思いから、今回のテーマ「言葉の力とカルマ(業) ~関心とバランスを保つという良き種蒔きを~」を考えていきたいと思います。

 

今回の件は「またか!」と言うほどTVなどで報道されていましたので、今更あれこれと疑惑の例を出すつもりはありません。
そのような中、「精査・真摯・第三者・説明責任を果たす」などの「言葉」が今回はよく引き合いに出されていました。
このような「言葉」と「実際の言動」があまりにも掛け離れていると感じることが多勢であったと思われますし、そのことは実際は当の本人が一番感じていることと思います、、、、、

 

このように、今回は「言葉を裏切った」結果の側面でもある、と言えるかもしれません。
不適切な例えですが、例えば、あなたが誰かから以下のような質問をされたと仮定してみて下さい。

「 孤独死を防ぐために、色々な調査や訪問をしているのですが、あなたの身の周りの方で、そのような状況になりそうな方がいたら教えてくれませんか?力になりますので。 」

このような質問をされたあなたは、不審に思うこともあるかもしれませんが、それらしき団体名と名刺などを差し出された場合に、頭に思い浮かんだ「ある人」のためになるならば、との思いから身近な方の情報を教えることもあるかもしれません。
勿論、これはあなたの「善意」から出た行動です。

 

そして後日、そのある人が特殊詐欺の被害に遭ったとあなたは耳にしたとします。
あなたの頭の中には、そう言えば?と、ある出来事が思い浮かぶことでしょう。
勿論、「孤独死を防ぐために・・・」という言葉を信じたあなたが悪い訳ではありません

 

仮に、このような出来事が起こった時に、あなたはどのように感じるでしょうか?
そして、
あなた自身が、このような特殊詐欺の為に使われた「言葉」であるとしたら、あなた自身たる「言葉」はどのように感じるでしょうか?

 

それは悲しみかもしれませんし、申し訳ないという気持ちかもしれませんし、怒りに転化されることもあるかもしれません。
そうです、、、、、

 

あなた自身が感じることは「言葉」も同じように感じている
そして、
そのように感じるということが「言葉の力」

 

でもあるということです。
もし、悲しみや怒りなどを感じたあなたは、あなた自身のその後の行動にも影響が出てくるかと思います。
それは「言葉」も一緒です。
そして、「逆もまた然り」で、良き言葉を発するというのは、このような意味からも「力」を伴っています。

 

ところで、「カルマ(業)」という言葉を聞いたことはあるでしょうか?
仏教などでは「業」と言われることもありますが、「業が深い」などの使われ方をされるように、どちらかと言えば「罪」や「罰せられる」などのようにネガティブで怖い意味に捉えている方が多いと思います。
怪しい新興宗教などでは脅し文句のように使われているケ-スもありますので、無理からぬ捉え方かもしれません。

しかし、「カルマ(業)」というのは、単に、

 

自分の行ったことは、自分に反ってくる

 

という単純な仕組みを表しているだけです。
よく、良き種を蒔く、自ら蒔いた種は自ら刈り取る、などとも表現されたりします。

これは、「言葉の力」と本質は同じです。
良き言葉を発すれば良きことが反ってくる。
良き行いをすれば良きことが反ってくる。

そして、繰り返しですが「逆もまた然り」で、不適切なことをすれば、不適切なことが反ってくるということです。
「自業自得」あるいは「身から出た錆」などは同じ意味で馴染みのある表現かもしれません。

 

「カルマ(業)」という表現は、どちらかと言えば、ある種の負?のイメージを伴っているように感じられますが、特別なことではありません。
また、本来の意味としては、良いことが起こる、あるいは、悪いことが起こるというような一義的なものでもありません

そして、良き種を蒔くということの繋がりとして、

 

実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな

 

という表現もあります。
これは感謝であったり謙虚な姿勢を表すもので、傲慢にならないようにとの戒め、あるいは、自らを律するということにも繋がっています。