第627回:『 カルマ(業)の輪から抜け出す方法:前編 ~加害も被害も「赦し」が鍵~ 』
【 その他参照ワード:スピリチュアル、因果応報 】
S.Light.M(カウンセリング・ヒプノセラピー・レイキヒーリング・各種セミナー&認定講座)の瀬川です!
TOPICSでは、カルマ(業)に関し、
《 自分のした事は自分に反ってくる 》という・・・
自然法則であるが故に・・・
罪や罰ではない!!!
との視点を、幾度も伝えています!
そして、今回のテーマのように、
カルマ(業)の輪から抜け出す
などの言葉も、よく見聞きします。

しかし、自然法則であるが故に、
抜け出す事も出来なければ・・・
そもそも抜け出す必要性は全くない!!!
というのが事実であり真実です(笑)
ただ、カルマ(業)の輪から抜け出すとの「発想」に関しては、
一理ある
というのも事実であり真実です、、、

そして、『 自分のした事は自分に反ってくる 』との視点の通り、
カルマ(業)の基本は個人単位
です。
ただ、同じくTOPICSでは、
私達は誰もが・・・
自分一人切りだけでは・・・
生きられない・・・
との視点も、幾度も伝えています。

そして、この視点から導かれるのが、
家族 → 学校 → 職場 → 地域 → 国 → 地球 などのように・・・
それぞれのレベル(段階)は違えども・・・
誰もが他者とのカルマ(業)を共有している・・・
というのが「現実」です。
つまり、カルマ(業)の視点では、
自分さえ良ければ・・・
それで構わないなどの・・・
他人事は一切通用しない!!!
という事です!

では、番組『 テレメンタリー2026 』(テレビ朝日)から、「 “軍国少女” と三八式歩兵銃 」(広島ホームテレビ)の回を少し眺めます!
【 軍都広島に生まれ 】
1929年、広島市で生まれた切明 千枝子さん(96歳)は、15歳の時に爆心地から1.9キロの場所で被爆しました。
被曝前の広島市は、多い時で40万人を超える市民が暮らす、中国地方の政治・経済の中心地として発展していました。
しかし、それと同時に、軍用鉄道や軍需工場などが点在する、
国内有数の軍都
という機能(側面)も兼ね備えていました。
そして、千枝子さんが小学生の時に日中戦争が勃発し、
広島市は軍都色が更に強くなる
という流れになりました。

ところで、現在も残存する被曝建物の一つに、旧広島陸軍被服支廠という施設があります。
そして、被曝前の被服支廠の敷地内には、保育園と幼稚園が併設されていました。
そして、千枝子さんの母は被服支廠で事務員をしていたが故に、千枝子さんも預けられていました。
そして、千枝子さんは話します、、、
千枝子さん:
『 原爆ドームは軍隊とは何の関係もない。 広島の産業とは関係があった。 だけど被服支廠は違う。 戦争にどっぷり使われた。 宇品は加害の町であった事の、唯一の証拠のような気がする。 』
そして、現在の千枝子さんは、多い時には週3日ほど、自らの戦争と被曝の体験を証言し続けると共に、被服支廠の歴史も伝え続けています。

【 軍国少女という自覚 】
千枝子さんは13歳になると、軍需工場に動員される日々を送りました。
そして、被服支廠に出向いた際には血の付いた軍服を洗濯し、時には軍用食料を作る糧秣支廠にも駆り出され、缶詰の消毒作業を行いました。
更に、武器を修繕する兵器支廠では、明治38年から日本陸軍で使われ始めた三八式歩兵銃と出会い、メンテナンス作業に従事するようになりました。
ちなみに、三八式歩兵銃はその後も約35年に渡って使われ続け、340万丁近くが製造されたと見込まれています。
そして、メンテナンス作業に際しては、上手くいかないと怒鳴られ、時には手を叩かれるなどの仕打ちも受けました。

そのように、恐さを感じながらも、銃をサンドペーパーで綺麗に磨き、雑巾に油を含ませたつや出し作業などを、必死に行っていました。
そして、千枝子さんは過去の自分自身を振り返り、話します、、、
千枝子さん:
『 これ(三八式歩兵銃)を兵隊さんが、お国の為に戦って、使って下さってるんだから、一生懸命に磨かないといけないと思い、やってました。 だから、頭の天辺(てっぺん)から足の先まで、今、考えてみたら “軍国少女” だったと思いますね。 』
そして、千枝子さんは、
結果的に戦争に荷担した事を反省し・・・
後悔の念を長年抱え続けて来た・・・
という人生を歩んで来ました。
そして、千枝子さんは同じく当時を振り返り、以下の短歌を詠みました、、、
《 アメリカが原爆造ってゐる時に 私は三八式歩兵銃の 錆落としていた 》

【 軍都広島の終焉 】
1945年8月6日、広島市に原爆が投下され、約14万人(1945年12月末まで)が亡くなりました。
そして、それと同時に、
軍都広島も終焉を迎えた
という結果になりました。
そして、その後の千枝子さんに心境の変化が生じ、次の通り話します、、、
千枝子さん:
『 戦争が終わった後に、私は一体、何て事をしたんだろうと思いました。 直接、敵兵をやっつけたり、撃ったり切ったり、そんな事はしておりませんけど、その為の武器を磨いたり、造ったりしていたんですから。 だから戦争にどっぷり浸かって、戦争協力者であった訳ですから。 その敵(かたき)を討たれてしまったなと、原爆が落ちた時に思いましたよ。 考えると辛くなるので、思わない事にして、考えるのがタブーでした。 でも、忘れようと思えば思うほど、不思議なのですが、思い出されて来るの。 だから、これはやっぱり忘れられない事なんだ、忘れてはいけない事なんだと、やっと気が付いた。 』

そして、同じく短歌に詠みます、、、
《 侵略戦争を聖戦と信じて働きし 陸軍三廠の苦き思い出 》