カルマ(業)の輪から抜け出す方法:前編 ~加害も被害も「赦し」が鍵~

【 思いも寄らない戦後の仕打ち 】

次にスパイと見なされたのが、仲村渠 明勇さんでした。

実は、仲村渠さんは沖縄本島でアメリカ軍の捕虜となった際、

 

故郷の久米島への艦砲射撃を中止する直訴をし・・・

久米島を救ったと同時に・・・

投降を促して島民も救助した・・・

 

という「行動」を取っていました。

実際、仲村渠さんが投降を促す直前には、約50人の島民が池に飛び込んで死ぬ寸前の状況でした。

 

しかし、仲村渠さんの取った行動が、

 

日本軍の逆鱗に触れた

 

という事態を招きました。

そして、同じく仲原さんが手記に残しています、、、

 

仲原さんの手記:
『 日本軍の間でも、「 あいつ、何とかして殺してやりたい。 」と、みんな話していた。 島民からは日本軍の所に、色々情報が来た。 「 イーフ近くの一軒家に一人でいるから、殺してくれ。 」とか。 』

 

そして、8月15日に終戦を迎えるものの、それから3日後、仲村渠さんは隠れ家で捕まり、家族全員が殺害されました、、、

 

 

【 自覚・無自覚に関わらず 】

戦後、鹿山は殺害の事実を認めるものの、「開き直り」の言動も取りました。

 

1972年4月2日号の「サンデー毎日」:
『 島民を掌握する為に、ワシはやったんです。 』

 

1972年3月28日の「琉球新報」:
『 日本の国土防衛の点から考えて、やった。 家ごと火を付けた事ですか? まあ、それは、それは火葬という事でしょうな。 』

 

更に、8月20日、今度は谷川さん一家が狙われました。

そして、仲原さんの手記に残されています、、、

 

仲原さんの手記:
『 (谷川さん)夫妻はアメリカの品物を担いで、売っていたらしい。 民間の人々は「 これは怪しい。 スパイではないか? 」と、警戒した。 次から次へと、話は大きく尾を引いて、とうとうスパイだと決め付け、通告に来た。 』

 

実は、谷川さん一家の事件では、

 

父が朝鮮人との理由だけで・・・

スパイと決め付けられた・・・

 

というのが「動機」でした。

そして、赤ちゃんも含め、谷川さん一家の全員が殺害されました、、、

 

 

ところで、上江洲 由美子さん(87歳)は島民の証言を集め、日本軍による虐殺を記録し続けて来ました。

そして、由美子さんは話します、、、

 

由美子さん:
『 無自覚で住民が加担していった事を、記録しておきたい。 今で言えば密告だけど、軍が恐いから従うという面と、お国の為だと思った面と、(両方)あると思いますよ。 』

 

そして、担任の先生(故:牧志 義秀さん)が亡くなる直前、谷川さん一家の事件を由美子さんに打ち明けていました、、、

 

由美子さん:
『 「 自分(牧志さん)は付いて行って、目撃したんだよ。 山の兵隊が家の前に来て、《 これから谷川を殺りに行くんだ。 》と、言ったから、彼らの後を付けて自分も行った。 止める事も出来ない、むしろ協力している。 」。 (牧志さんにも)後悔とか、葛藤とか、今、言わなくちゃとの気持ちはあったと思うんですけどね。 「 谷川さんはスパイじゃなかった。 」と、(牧志さんは)言っていました。 』

 

 

【 未だに癒えない傷 】

戦後80年を迎えた昨年(2025年)、日本軍による虐殺事件に関し、

 

初めての追悼式

 

が、久米島で行われました。

しかし、追悼式の準備が進む中、地域の複数の代表者から反対の声が上がりました、、、

 

代表者A:
『 間違いなく、触れて欲しくない。 ( 「 80年も経過したのに? 」と問われると、逆に)80年経って「 何で今更? 」と。 知り合いの身内が関わっているという事もあるし、関わっている人達が入り組んでいるから、そういう話は出来ない。 戦争の話はする。 でも虐殺に関しては、ほとんどしない。 子や孫達が生きてるから。 』

 

代表者B:
『 余りにも生々しくて。 地元の人間が関わってるから、思い出してしまうんじゃないか。 』

 

 

更に、追悼式に向け、仲村渠さんの遺族を探す試みも行われました。

そして、仲村渠さんの生家がある地域に向かい、遺族の消息を尋ねても、

 

誰も答えてくれないどころか・・・

『 あんた、こんな事しない方がいいよ。 』と・・・

言われる始末・・・

 

でした。

つまり、先の通り、日本軍(鹿山)の逆鱗に触れた事で、

 

仲村渠さんの一族全員が・・・

戦後になったにも関わらず・・・

久米島に住めなくなった・・・

 

という「顛末」でした。

故に、仲村渠さんの遺族は、沖縄本島で暮らし始めました。

 

 

そして、他の遺族も探す事が出来、追悼式の承諾を得る事が出来ました。

そして、様々な紆余曲折を経ながらも、追悼式も無事に終える事が出来ました。

そして、当初は反対した代表者Bも「 参加して、今では良かったと思っている。 」と話しました。

 

ただ、

 

戦中に分断された・・・

久米島の島民同士の傷は・・・

戦後になった今でも・・・

癒やされていない・・・

 

というのが「現実と実態」です。

そして、谷川さん一家の長男と同級生だった、上江洲 教昭さん(90歳)が話します、、、

 

教昭さん:
『 忘れる、いつか、誰も忘れる。 また、同じ事が起きる。 風化させてはいけない。 』

 

 

では、番組は終了し、締め括りに入ります!