【 追い打ちを掛ける軍法会議 】
戦場に出られなくなる兵士が増加する中、イギリス軍司令官のダグラス・ヘイグは、兵士に厳しい態度で臨みました。
ヘイグのメモ:
『 兵士が敵を目の前にして、臆病になるのを防ぐには、見せしめを作る事が必要である。 』
イギリス軍二等兵のハリー・ファーは、シェルショックと診断されました。
そして、5ケ月の入院の後、戦場に戻されるものの、「再び」発症しました。
すると、上官はファーを軍法会議に掛け、
「臆病罪」との判決が下り・・・
死刑・・・
となりました。

この時のファーは25歳で、妻と2歳の娘がいました。
そして、妻のガートルードが亡くなる直前の「99歳」だった1993年に、インタビューを受けました。
ガートルード:
『 夫が撃たれた時、その場にいた従軍牧師から手紙が届きました。 そこには、こう書いてありました。 《 私は処刑に立ち会いました。 銃殺隊がやって来た時、彼は目隠しされるのを拒みました。 目を開けたまま、刑を受けました。 》 夫は決して「 臆病者 」ではありませんでした。 』
【 日本のサバイバーズ・ギルト(生存者罪悪感) 】
日中戦争(1937~1945年)では、日本(軍)は戦争神経症を強く警戒しました。
しかし、陸軍省医事課長は貴族院(国会)で答弁します。
医事課長:
『 世界戦争(第一次世界大戦)に於て欧米軍に多発致しましたる、戦争神経症なる精神病は、幸にして一名も発生致しませぬ事は、皇国民の特質、士気の旺盛なる事を如実に示すものでありまして、皇軍の誇(ほこり)と致す所であります。 』
そして、新聞各社も「大本営発表」という、追従の報道で後押ししました。
しかし、全ては「偽り」でした、、、

千葉県の国府台陸軍病院では、数多くの戦争神経症の兵士が治療と称した「研究対象」にされました。
他にも、兵士は精神分裂病(現在の統合失調症)などの精神病も、数多く発症していました。
特に、国と仲間の為に命を捧げる事が「美徳」とされた日本兵では、
仲間が死に、自分だけが生き残った事に対する・・・
サバイバーズ・ギルト(生存者罪悪感)・・・
を発症する者が、数多く存在しました。
更に、同じく仮病と疑われない為に、国の恩給(補償)を申請出来ず、貰えなかった人が大半でした。
【 沖縄戦のアメリカ兵も 】
第二次世界大戦(1939~1945年)では、「軍事大国」と称されるアメリカでも、数多くの戦争神経症の兵士を抱えていました。
特に沖縄戦では、女性と子どもを含む、数多くの民間人が犠牲になりました。
アメリカ海兵隊員の証言:
『 私は手榴弾を投げ入れた。 沖縄の女性と子どもが燃えながら逃げ出して来ても、見捨てていた。 水もかけない。 私はどうかしていた。 とにかく、みんなおかしくなってしまった。 』

アメリカでは、1946年に映画『 光あれ 』が制作されました。
しかし、軍にとって「不都合な事実」を突き付けた、心を病んだ帰還兵のドキュメンタリー映画であったが故に、公開直前に軍は公開禁止としました。
その映画の中では、
《 第二次世界大戦での米軍負傷者の約20%は精神・神経疾患であった 》
と紹介されています、、、
【 人間を人間と見做さないマインドコントロール(洗脳) 】
第二次世界大戦の終結後、アメリカ陸軍予備役准将S・L・Aマーシャルは「より強い軍隊」を作る為に、発砲率の改善に着手しました。
なぜなら、よく訓練された部隊であっても、「実際の戦闘(現場)」で敵に発砲する兵士の割合は25%に過ぎないという持論(自論)を展開したからです。
後に、信憑性を巡り物議を醸すものの、当時の軍に与えた影響は甚大なものでした。
そして、射撃訓練の際に、それまでの丸型の標的から人型へ変えるなど、発砲を「躊躇わせない」訓練法が取り入れられました。
訓練担当軍曹の証言:
『 まず「 敵は人間以下だ 」と伝えた。 兵士に敵を殺させるには、相手が《 人間 》だという感覚を徹底的に奪っておく事が重要だ。 なぜなら、敵も同じ人間だと感じた途端、殺せなくなるからだ。 』
こうして、訓練を受けた兵士は、ベトナム戦争に駆り出されました、、、

【 生き延びても増え続ける自殺 】
ベトナム戦争は泥沼化し、アメリカはサーチ・アンド・デストロイ作戦(索敵と殲滅)を取りました。
これは、村人を尋問し、ゲリラが潜伏している「疑い」だけで、全てを焼き払うものでした。
そして、1968年3月、最悪の《 ソンミ事件 》を引き起こしました。
これは、老人も女性も子どもも含め、罪の無い民間人500人を殺害した事件です。
この時、25人を殺害したと証言した兵士が、当時19歳のバーナード・シンプソンでした。
シンプソン:
『 私は、おかしくなってしまいました。 人を殺す訓練が私の中で蘇って来たのです。 1人を殺してしまえば、2人目はそれほど抵抗ありません。 次はもっと簡単です。何の感覚も感情も無くなり、とにかく殺しました。 (自分が殺した人の)写真を見なくても夢に出て来ます。 心に焼き付いています。 私は自分が赦せません。 たとえ命令を受けてやった事だとしても、どうやって忘れたり、赦したり出来るでしょう。 』

シンプソンの上記の発言は、事件から「21年後」のものです。
しかし、インタビュー当時も悪夢に苦しみ続け、精神治療を受け、大量の服薬を続けていました。
そして、このインタビューから「8年後」、シンプソンはショットガンで自殺しました、、、