人生の壁を乗り越え消し去る為には ~国境&ゲンジボタルから~

【 自由への跳躍 】

東ベルリンと西ベルリンの「境目」に、最初は有刺鉄線が設けられ、兵士や警官が警備に当たり、境目を越えようとする人は、最悪射殺される状況でした。

 

この時、東ドイツ(ベルリン)側で警備の任務に就いた、19歳のコンラート・シューマンがいました。

しかし、シューマンは分断されたベルリン「両市民」の姿を見るにつれ、東ドイツ(ベルリン)への絶望が膨らんでいきました。

 

最初の有刺鉄線設置から2日後の正午頃、更に壁が作られ始め、コンクリートの補強も開始されました。

すると、シューマンは自分がいた東側の警備の隙を窺い、午後2時、有刺鉄線の壁を飛び越え、西側に亡命します。

この瞬間が写真に収められ、即座に世界各国の新聞で取り上げられました。

 

新聞の見出しに付されたタイトルは《 自由への跳躍 》でした。

 

 

【 壁が崩壊した後にも 】

しかし、亡命後のシューマンの人生は、決して順風満帆ではありませんでした。

なぜなら、アメリカから東側のスパイとの理由で尋問を受けたり、東側の報復にも怯える日々だったからです。

 

そして、ベルリンの壁が崩壊した翌年、シューマンは「故郷」の東ドイツ(ベルリン)を訪れますが、東側に残った親戚や知人から「裏切り者」と言われます。

つまり、壁の崩壊後も、親しき間柄であったはずの人達と、「縁」が途切れたままになったという事です。

そして、1998年、理由は不明ですがシューマンは自死しました。

 

【 二面性を持つトンネル 】

話を当時に戻し、危機を抱いた東ドイツ政府は、壁の補強を更に加速させます。

すると、壁が完成する前に脱出しようと、東ベルリン市民は様々な試みをします。

 

その一つに、東側に取り残された家族などを脱出させる為に、西側の大学生が主体となり、トンネルを掘り始めます。

 

 

その作業に携わった一人が、東側から亡命したヨアヒム・ノイマンです。

ノイマンの恋人も、東側に取り残されていました。

 

一方の東側も、高性能マイクを使ってトンネル掘削の音を調査し、何とかトンネルを塞ごうとします。

ノイマン達の掘削から半年後、ようやくトンネルが開通し、ノイマンの恋人も含め、57名という最大の脱出が遂げられました。

しかし、「70本」以上のトンネルが掘られたものの、成功したのは「19本」だけでした。

 

そして、ノイマンは大学卒業後、トンネル専門の建設エンジニアになりました。

ノイマンが携わったトンネルの一つに、1991年に貫通した英仏海峡トンネルがあります。

 

このトンネルにより、イギリスとヨーロッパが「繋がり」、EUの「統合」が加速するキッカケになりました。

一方、トンネルを通って不法移民がイギリスに入り込み、イギリスのEU「離脱」の一因にもなりました。