食わず嫌いは人生を味気なくする ~金嬉老事件と美味しんぼから~

【 判決に影響を与えたキムの生い立ち 】

キムは朝鮮半島出身の両親の元、1928年に静岡県の清水市で生まれました。

当時、日本の統治下にあった朝鮮半島から、清水市に多くの労働者が来て生活していました。

 

父を早くに亡くし、母も差別やイジメを受けながら、貧困生活を送っていました。

更に、この差別やイジメには、キムが通っていた小学校の教師も加担しました。

キムは小学校を逃げ出し、各地を放浪し、後に終戦(敗戦)を迎えます。

 

キムは「生まれも育ちも」日本である事から、日本の終戦(敗戦)に悔し涙を流します。

つまり、

 

「外見」朝鮮(韓国)人で、「中身」は日本人

 

という、キム自身も揺れ動きの状態にありました。

 

 

そして戦後を迎えても、読み書きも出来ない事から、詐欺や強盗などで幾度か服役しますが、36歳の時に一念発起し、自動車整備士の国家資格を取得します。

しかし、朝鮮人という事で、どこも雇ってくれません

 

そこで、飲食業を営み生計を立て、それなりに利益も出し、赤いスポーツカーを乗り回します。

これは、朝鮮人である事を見抜かれない為であった一方、

 

自分は、朝鮮人でもなければ、日本人でもない

 

という、キムの心境の「反映」でした。

 

【 支援が広がる裁判 】

こうして、色々な事実が判明する中、次第に日本人を含め、多くの支援者が集っていきます。

また、キムの受けて来た差別やイジメの気持ちが、痛いほど理解出来るという理由で、障がい者差別を受けていた日本人も加わります。

 

 

そして、1972年に無期懲役の判決を受けました(1975年に最高裁に上告するものの、棄却され無期懲役が確定)。

そして、判決に関して山根 氏は、キムの生い立ちや、差別やイジメなどが考慮に入れられたと推測し、次のように話します。

 

山根 氏:
『 無期懲役にしたのは、やっぱり死刑に出来なかったという事。 それは判決の文章の中に十分に貫徹はしていないんだけど、でも、大変な侮辱発言があった事は認めている。 たとえ数行でも認めたその重さっていうのは、日本の裁判所もその事は無視出来なかった。 』

 

【 日本から追放されるキム 】

逮捕から39年後の1999年、キムは仮釈放を受けます。

この仮釈放に尽力したのが、韓国人のチャン・ギョンド氏でした。

 

チャン氏は仮釈放前の6年間、日韓を行き来し、仮釈放を求めてキムを支援しますが、それと同時に、キムも獄中で初めて習う韓国語の勉強に精を出しました。

そして、法務省から仮放釈放通知が届くものの、次の条件が付されました。

 

《 ただちに韓国へ渡り、二度と日本に入国しない 》

 

キムが70歳の1999年9月、韓国の地に「初めて」降り立つと熱烈な歓迎を受け、英雄扱いされます。

ただ、キムにとっては文化も慣習も全く違い、何も分からない状況でした。

 

 

そして、当初は講演会などを求められ、それに応え、韓国の生活に馴染もうと努力します。

また、立て籠もった旅館の女将と韓国で再会し、キムは謝罪し和解を果たしました。

 

しかし、騙されて財産を失い、1年後には知り合いの女性から夫の暴力の相談を受け、夫に対する放火と殺人未遂でキムは逮捕されます。

こうして、韓国でも「信頼」を失い、忘れら去られていきました、、、