食わず嫌いは人生を味気なくする ~金嬉老事件と美味しんぼから~

【 素を見せ心情を吐露するキム 】

当時、朝日新聞の写真部記者だった福永友保 氏は旅館に潜り込み、キムを間近で撮影しようと考えました。

そして、旅館に近づくと、キムとばったり出くわします。

 

福永 氏が旅館の中に入って良いかキムに尋ねると、「俺はここの住人じゃないから、主人に聞け」とキムは答えます。

こうして、福永 氏は人質を含め旅館内を撮影し、仮眠を取るキムの姿の撮影までも許されました。

 

 

また、当時、NHK静岡局の記者だった村上義雄 氏も、キムから単独取材が許されました。

村上 氏は当初のキムの印象は「何をするか分からない男」と思いつつも、取材を始めるとキムは生い立ちから語り始めました。

 

すると、取材が進む中、キムは一冊の手帳を村上 氏に託します

その手帳はキムにとっての「遺書」であり、手帳に書いている内容をテレビで伝えて欲しいと村上 氏にお願いします。

そのようなキムの「言葉」について、村上 氏は次のように振り返っています。

 

村上 氏:
『 凄く大事な言葉を聞いているな。 命がけの訴えをしているな。 彼は2人も殺して赦せないと思いながら、しかし、自分の中の、ある部分を揺さぶられるようなね。 』

 

 

【 キムの真の動機とは 】

その手帳には、ある警察幹部の発言が書かれていました。

それが、

 

《 てめえ等、朝鮮人が日本へ来て、ろくな事をしない。 》

 

そして、村上 氏は全国放送で手帳の内容の一部を紹介しました。

すると、そのお礼として、キムは旅館の女将と子ども達の4人を解放します。

 

その後、当の警察幹部は記者会見を開き、一応謝罪の弁は述べるものの、とても「本心」からのものとは思えない内容でした。

そして、事件から5日目の2月24日、取材陣に紛れ込んだ警察にキムは逮捕されます。

 

それは、先の警察幹部の記者会見が終わった直後、人質解放の為にキムが旅館から出て来た時の逮捕劇でした。

そして、人質は全員無事でした。

 

 

つまり、キムが立て籠もりを実行した「真の理由(真の動機)」は、民族差別への怒り(抗議)でした、、、

そして、8年近い裁判が始まります、、、

 

【 複雑な心中の在日韓国人2世 】

差別やイジメを受け続けて来た在日韓国人2世の中でも、キムの思いが「理解出来る」一方で、キムのした事は「到底認められない」犯罪であるなど、複雑な心中が入り交じります。

 

キムの裁判を手掛けたのが、弁護士の山根二郎 氏です。

実は、山根 氏は事件直後に旅館に出向き、キムを説得していました。

そして、同じくキムの「言葉」について、山根 氏は次のように振り返っています。

 

山根 氏:
『 キムが立て籠もって、言っている事が、やはり(自分の心に)迫ったんですね。 私も含めて、朝鮮、あるいは朝鮮人に、どのように(日本人が)関わって来たかという事を、問われていると思ったんですね。 』

 

 

事件から4ヶ月後の1968年8月に裁判が始まり、検察の求刑は死刑でした。

山根 氏は、殺人を犯したのは「事実」なので、無罪は不可能ながらも、特別弁護人(弁護士資格を持たない者を選任する事)を裁判に加える事で、キムの起こした事件の背景と動機の解明に重きを置きます。

 

そして、10人の在日韓国人2世を特別弁護人に選任し、民族差別の歴史を法廷の場で提起していきます。

そして、裁判の場を通しても、在日韓国人2世の間では気持ちの揺れ動きが続きます、、、