【 ラジウムがもたらした悲劇とラジウムガール 】
1910年代には多くの病院でラジウムでガンが治ると実践されるようになっていきます。
魔法の力や生命の万能薬ともてはやされ、様々な商品にラジウムが「汎用」されるようになりました。
例えば、化粧品、入浴剤、パン、水など、、、
この中にラジウム時計がありました。
これは文字盤をラジウム入りの塗料で塗ると、暗闇でも光って見えるという触れ込みで、特にアメリカで大量生産されました。
1920年には400万個のラジウム時計が生産され、文字盤を塗る工員だけで2、000人以上が工場で働いていました。
そして、その多くが若い女性でした。
女性達は文字盤を綺麗に塗る為に、ラジウムが付着した「筆を舐めて」尖らせていました。
すると、女性達は次々と様々な病気やガンを発症し、後に「ラジウムガール」と呼ばれるようになります、、、
【 理解っていたにも関わらず 】
ラジウムは骨に沈着し、体内で常に放射線を出し続ける性質があります。
かつてラジウム時計工場があった跡地は放射線濃度が高く、除染に10年を費やしました。
そして、会社は女性達(ラジウムガール)には「ラジウムは危険ではない」と伝えていました。
しかし、男性社員には危険性を伝えていました。
その証として男性社員は「鉛のエプロン」を着用していました、、、
1925年に被害者の女性が会社を訴えた事で、初めてラジウムの害が明るみに出ます。
そして、病気の調査が本格的に始まり、報告書では原因は微小な放射性物質と結論付けられました。
それについてマリーはアメリカの新聞で次のように答えています。
マリー:
『 体内に入ってしまったラジウムを除去する方法はありません。 最適な方法は仕事を辞め、雇われていた工場から限りなく離れた場所に住むことです。 』
その頃のマリーはパリにあるラジウム研究所(現:キュリー博物館)の初代所長として研究を続けていました、、、
【 目を背け続けた晩年のマリー 】
しかし、この頃にはマリー自身も数々の体調不良に襲われていました。
研究所ではラジウムを扱い焼けただれた指先は、科学者の「勲章」とされていました。
そして、次第に同僚から死亡者が出始めます。
しかし、マリーはその原因をラジウムではなく「別のものにすり替え」ました、、、
また、マリーは知人に次のように語っています。
マリー:
『 放射能も私が生んだ子どもなの。 その子の教育のために自分の力の全て、自分の研究生活の全てを捧げようと思っているわ。 』
そして、その後もマリーは次々と体調不良を発症し、親しい友人に吐露していました。
マリー:
『 私の白内障の本当の原因はラジウムかもしれないの。 ふらついて歩くのに苦労するのもラジウムのせいかもしれないの。 』
1934年7月4日、マリーは66歳で死去します。
死因は「放射線被爆」による再生不良性貧血とされました、、、