妖怪から学ぶスピリチュアルなどの様々な視点(笑):前半 ~見えぬものへの尊び~

○ 一反木綿(いったんもめん)
『 昔、鹿児島県の大隅地方に現れたという妖怪。 一反ほどの白い布の姿で、見た目には全く恐ろしくはないが、これが人を襲う。 ヒラヒラと飛来しては、人の首に巻き付いたり、顔面を覆ったりして息の根を止めるのだ。 』

 

見た目(容姿)でのおとなしさなどを表す《 虫も殺さぬ(顔) 》という言葉もありますが、私達の肉体(身体)というのも《 魂(意識)の器 》でもあります。

また、《 人は見かけによらぬ 》との言葉もありますが、誰かの真の姿を見抜こうとする際には、その人の《 「思い・言葉・行動」の一貫性が保たれているか!? 》を観察するのが一番の早道であり近道です。

勿論、私自身も含め完璧な人など《 この世 》には存在しておりませんので、《 誰もが多面的な存在(長所もあれば欠点もある) 》や、その時々の《 事情や背景 》なども考慮に入れた《 調和とバランス 》の視点も大切で必要となります!

 

○ 砂かけ婆(すなかけばばあ)
『 神社の近くにある寂しい森などに潜(ひそ)んでいる。 通りかかる人に砂をバラバラと振りかけて脅(おど)かす。 砂を浴びせる以上の事はしないが、姿を見た者はいないと言う。 』

 

ここでは次に登場する「児啼爺(こなきじじい)」との《 対比(比較) 》も関係して来ますが、《 当時(過去) 》には「姥捨て山」などの言葉もあったように、《 男尊女卑 》に加え《 高齢者差別 》も当たり前の時代が存在していました。

そして、《 当時(過去) 》とコメント致しましたが《 現代 》ではそれに輪を掛けた《 優生保護(思想) 》が勢いを増して《 息を吹き返して 》来ている感も否めません

ちなみに、この先の妖怪でも《 当てはまって 》来ますが、『 砂を浴びせる以上の事はしないが、姿を見た者はいないと言う。 』のは、ここ最近の公文書等の改竄なども含め、《 誰も責任を取らない 》という現在の日本国内の風潮と、どこか《 反映 》されているように感じませんでしょうか???

 

○ 児啼爺(こなきじじい)
『 人のあまり足を踏み入れないような深山で、時々、オギャーオギャーと赤ん坊の泣き声が聞こえる事がある。 どうして赤ん坊がいるんだろうと思って、その泣く者を抱くと、赤ん坊はいきなりしがみついて来て離れない。 逃げ出そうとすると重さが50貫にも100貫にもなり、抱いた者は動けなくなってしまう。 これがこなきじじいである。 』

 

子どもへの虐待なども未だに増加傾向にあり、バスの送迎などでの事故?事件?なども含め《 同じ事が繰り返され続けている 》のは多くの方もご存じの通りです。

子どもという存在は《 大人 》がいなければ生きていけません
故に、特に18歳頃迄の子どもさんに関しては、あまり《 (親への)依存 》というのは気にする必要性もありませんし、依存という言葉にそぐわない面も多々あります。

 

ただ、この「こなきじじい」の場合は大人(おじいさん)が子ども(赤ちゃん)に扮するという《 嘘(詭弁) 》を利用しています。

これは「人の善意」あるいは「人間の弱み」に付け込むとも言えるかもしれませんが、同じような仕組みを悪用しているのが《 マインドコントロール(洗脳) 》でもあります。

そして、マインドコントロール(洗脳)の源の一つに存在しているのが《 共依存 》です。
言わば《 大人同士 》の(共)依存が、これも輪を掛けて酷くなっている傾向があります。
これは《 忖度 》なども同様です。
そして、特に《 (大人の)男性の幼稚化 》が止まらない状況です。

 

危険への接近 》を避ける(防ぐ)為には《 知る 》事が大切で必要になります。
そして、知る事を拒ませるのが《 無関心 》です。

そして、先程は「すなかけばばあ」の所で「対比(比較)」ともコメント致しましたが、「ゆりかごから墓場まで」との福祉を表す言葉もありますが、魂の視点では「秘密は墓場まで持って行く」では全くなく、《 墓場に行った後には全てが明らかになる 》との視点が《 今を生きる 》上では欠かせません。

ちなみに、他界後の魂(故人)が《 (どこに行けば良いのかを)知って 》いれば墓場に行く(いる)事もありません!