人の愚かさが極まるとは・・・ ~戦争そして第五福竜丸事件(ビキニ事件)以外にも~

そして、ちょうどこの時、先程の第二幸成丸は何も知らされずに、放射能で汚染されたマーシャル諸島の海へ船を進め続けており、実験から10日後にこの漁場で操業を開始しました。
ただ、この時、第五福竜丸でサンゴの粉(これが「死の灰」である事は後に判明します)のようなものが降っていたとの連絡だけは第二幸成丸にも入っていました。

そのように操業を続ける中、今度はロメオ実験による「死の灰」が第二幸成丸にも降り注いでいきます、、、

 

しかし、事情も何も知らない(知らされていない)第二幸成丸では、海水で顔や頭を洗い、また、同じく海水で野菜を洗い米をとぎ、取ったばかりのマグロも食べ続けていました。
更に、操業を続けている最中には、放射性物質を含む雨も降り注いでいました。

こうして第二幸成丸は普段通りの操業を続け、4月15日に帰港する事になりましたが、帰港直後に乗組員と船体など、そしてマグロへの放射能(被爆)検査が行われました。
この時の国が定めた安全基準値は1分間に100カウントとされていましたが、映画の中でインタビューに応えていらっしゃった当時の乗組員の方からは1,500カウントもの値が検出され、船の機器類の中には4,000カウントまで跳ね上がっている数値も計測されました。

このような状況でありながらも、アメリカによる水爆実験は続行されていきます、、、

 

そして、被爆検査の結果、政府が指定した東京・塩釜・三崎・清水・焼津の5つの港だけでも、放射能汚染された魚を廃棄した船は延べ992隻にも及び、この事から日本近海で獲れる魚も大量に汚染されている(海そのものが汚染され続けている)という事実が判明しました。

そして、アメリカによる6回の実験が終了した後の5月15日、科学者等を乗せた日本政府の調査船たる俊鶻丸(しゅんこつまる)がマーシャル諸島に向かい、その道中でも随時に調査を行っていきましたが、雨水からも、色々な魚からも安全基準値を大幅に超える被爆値が検出され続けていきますが、それと同時に、同じ海では通常通り漁も行われ続けていました。

ところが、この年の12月、日本政府は突如としてマグロの放射線検査を中止します、、、

 

そして、翌年の1955年(昭和30年)1月4日、《 ビキニ被災事件の補償問題に関する日本側書簡 》という名の【 日本交換公文 】というものをアメリカと交わします。
その内容は以下のようなものです、、、

 

『 本使は、アメリカ合衆国政府が、マーシャル群島における千九百五十四年の原子核実験の結果生じた傷害又は損害に対する補償のため、二百万ドルの金額を、法律上の責任の問題と関係なく、慰謝料として、日本国政府に対しここに提供することを閣下に通報します。

  (中略)

  アメリカ合衆国政府は、日本政府が、前記の二百万ドルの金額を受諾するときは、日本国並びにその国民及び法人が前記の原子核実験から生じた身体又は財産上のすべての傷害、損失又は損害についてアメリカ合衆国又はその機関、国民若しくは法人に対して有するすべての請求に対する完全な解決として、受諾するものと解します。 』

 

つまり、二百万ドルの支払いで、全てを終わりとした、、、という事です、、、

この二百万ドルとは、日本円で約7億2千万円相当の金額ですが、この4分の3が魚の廃棄や魚の値が下がった事に対する損害に充てられ、その残りが第五福竜丸の乗組員の治療費などに充てる事が閣議決定されていました。
更に、先程のアメリカと交わした文書と同内容の覚書(つまり、一端金銭を受け取ったら、以降一切の責任を問わず責めを負わない)が、日本政府と漁業組合等、更にその下部の団体等と締結されていきました。

そして、12月の検査中止の日本政府による発表の翌日から、全ての魚が日本の食卓に何事も無かったかのように提供され続けていきました、、、

 

そして、その後もアメリカは、1956年5~7月にレッドウィング作戦、1956年6月に核爆弾フラットヘッド、1956年7月に核爆弾テワ、1962年4~11月にドミニク作戦等と、太平洋で行われた核実験は105回にも及んでいきました、、、

しかも、当時のアメリカエネルギー省(旧 アメリカ原子力委員会)においては、キャッスル作戦による世界規模の放射性下降物の拡がりが記録された文書も残されており、ヤンキー実験に際しては日本に大量の「死の灰」が降下したと記されており、実際に1954年5月17日の記録では、日本列島全体がすっぽりと「死の灰」に覆われていた事も記録されていた事が判明しています、、、