【 似非(えせ)スピリチュアルの落とし穴 】
つまり、
「知る」事と「学ぶ」事が、混同されてしまい・・・
ひたすら「知る」事が「学ぶ」事だと、思い込んでいる事で・・・
本当の意味の「学ぶ」という・・・
一番大切な「活用・行動・実践」を、日常生活に落とし込む事が出来ていない・・・
という事です!

手厳しいコメントですね(笑)
ただ、この点を理解しておかないと、どれほど「知る」作業を続けても、
その中から生ずる迷いなどが、いつしか、あらぬ方向性へ向かい・・・
「現実」から乖離(浮遊)した、本末転倒なスピリチュアル(本質)として捉えてしまう(可能性が高くなる)・・・
という「危険性」を孕んでいます!
つまり、本来のスピリチュアル(本質)が伝えているのは、「矛盾」して聞こえるかもしれませんが、
スピリチュアル(本質)も、目の前に広がっている世の中や社会も・・・
どちらも「現実」である!!!
という事実から、「目を背ける」事の「危険性」という意味です。

では、ここで少し視点を転換します!!!
【 三位一体とは 】
最初に、私はキリスト教徒でもなく、無宗教です(笑)
そして、キリスト教に「三位一体(さんみいったい)」というものがあります。
なお、聖書も「旧約」と「新約」があり、聖書「自体」も後世の人が書き連ね、改変されている箇所があるのは、史実が明らかにしています。
つまり、聖書で伝えられているのは「キリストの言葉通りではない」という事実と、その解釈(真意)も、当時の人(権力者など)の「都合」が混ざっています。
では、この「三位一体」とは、
「父(である神)」と「子(であるキリスト)」と「聖霊」
と、聖書では解釈されています。
そこで、キリストの真意!?を、私の勝手な憶測と推測で解釈します(笑)
それは、キリストが伝えたかった「三位一体」とは、
「父(という自然法則)」と「子(という自分・自我)」と「聖霊(という(自分以外の)人間や動物や植物などの生命)」
という捉え方です!

【 三位は同じもの 】
しかし、何故、「聖霊」が「(自分以外の)人間や動物や植物などの生命」なの???という疑問が湧くでしょう(笑)
では、説明します!!!
「私(という個人)」が、「どういう生き方をするのか???」という思索では・・・
「自分を知る(理解する)」為に、「他者(などの他の生命活動)」を知る事がとても役立つ・・・
そのような「自分の鏡」の役割を果たす「(自分以外の)人間や動物や植物などの生命」は・・・
まさに「聖なる霊という存在」!!!
という視点だからです(笑)
そして、この「三位一体」を、「私・自分」という一つの個体(個性)に当てはめると、
「心(精神)」と「体(肉体)」と「魂(霊)」
になります!

そして、「三位一体」における、
この「三(者)」は、本質的に全く同じもの
と解釈されているように、
私達「人間」では、「心(精神)」と「体(肉体)」と「魂(霊)」のように・・・
それぞれが、「個別に分離して」存在出来るものではなく・・・
私達「人間」とは、この「三(者)」の全てが溶け合って(融合して)こそ・・・
初めて「人間」として存在出来る・・・
という事を意味しています、、、

【 仏教でも同じ 】
(大乗)仏教の、仏の三種類の在り方も、「法身・報身・応身」という「三身(さんしん)」です。
また、「唯一神」を崇拝の対象とする宗教では、「三(位・身)」という概念は、ほとんどありません。
なお、「三(位・身)」を取り入れている、あるいは、取り入れていないから「良いの? 悪いの?」という趣旨では全くありません!
それぞれの特色があるので、他意も悪意も全くありません(笑)
ちなみに、神社では「自然法則そのもの」として、例えば「岩木山という、お山そのものをご神体」とする所もあります。
また、「人間」として生きた(生活した)経験はない、「自然霊」という一種のエネルギー体をご神体として奉るケースもあります!