「知る」事と「学ぶ」事が混同されてしまい・・・
ひたすら「知る」事が「学ぶ」事だと思い込んでいる事により・・・
本当の意味での「学ぶ」事における・・・
一番大切な「活用・行動・実践」という、日常生活への落とし込みが出来ていない・・・
という面を意味しております。
少々手厳しい見解かもしれませんが、この点を理解しておかないと、いくら「知る」という作業を続けていても、
その中から生ずる迷いなどが・・・
いつしか、あらぬ方向性へ向かってしまい・・・
「現実」から乖離(浮遊)した・・・
本末転倒なスピリチュアルな観点(本質)として捉えてしまう(可能性が高くなる)・・・
という「危険性」をも孕んでしまいます。
つまり、本来のスピリチュアルな本質が伝えている事は、矛盾するように感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、
スピリチュアルな観点も・・・
目の前に広がっている世の中や社会も・・・
どちらもが「現実」である・・・
という側面から「目を背ける」方向性への「危険性」という意味でもあります。
では、ここで少し視点を転換してみます!
これも今までのTOPICSにおいて繰り返しお伝えしておりますが、私はキリスト教徒でもありませんし、無宗教ですが、また、ここからは私の全くの個人的な解釈でもあり、「今の私が到達している理解度」でもあり、正しいのか間違っているのかも分かりません(笑)
そこで、キリスト教における「三位一体(さんみいったい)」というものがあります。
なお、ここでお断りを入れますが、聖書においても旧約と新約とが存在しておりますのと、聖書そのものも後世の人々が書き連ねたり、改変もされているのは史実が明らかにしておりますので、そのような意味からも、現在までに伝えられているのは「キリストの言葉通りではない」事と、解釈(真意)においても、その作られた時代における人々(権力者など)の「都合」が混ざっているものでもあります。
では、この「三位一体」とは、
「父(である神)」と「子(であるキリスト)」と「聖霊」
である、と解釈されております。
そこで、キリストの真意?を私の勝手な憶測と推測で解釈してみます(笑)
キリストが伝えたかった「三位一体」とは、
「父(という自然法則)」と「子(という自分・自我)」と「聖霊(という(自分以外の)人間や動物や植物などの生命)」
であると捉えています。
しかし、ここで、何故、「聖霊」が「(自分以外の)人間や動物や植物などの生命」であるの?という疑問が湧くかもしれません(笑)
では、ご説明致します。
「私(という個人)」が「どういう生き方するのか?」という思索において・・・
「自分を知る(理解する)」ためには「他者(などの他の生命活動)」を知る事がとても役に立ちます・・・
そのような「自分の鏡」という役割を果たしてくれている「(自分以外の)人間や動物や植物などの生命」は・・・
まさに・・・「聖なる霊という存在」・・・
と言えるのかもしれない?という視点ですが、ここでの本当の意味は、締めくくりにも繋がっておりますので、宜しければ、このままお読み進め下さい(笑)
そして、この「三位一体」を、「私・自分」という一つの個体(個性)に当てはめますと
「心(精神)」と「体(肉体)」と「魂(霊)」
と呼べるのかもしれません。
そして、「三位一体」とは、
この「三(者)」は本質的に全く同じもの
と解釈されているように、
私達「人間」においては・・・
「心(精神)」と「体(肉体)」と「魂(霊)」とのように・・・
それぞれが、個別に分離して存在出来るものではなく・・・
私達「人間」とは・・・
この「三(者)」の全てが溶け合って(融合して)こそ・・・
初めて「人間」として存在出来る・・・
という事を意味しているようにも感じます。
そして、(大乗)仏教における仏の三種類の在り方としても、「法身・報身・応身」という「三身(さんしん)」が伝えられたりしております。
また、唯一神を崇拝の対象としている他の宗教においては、このような「三(位・身)」という概念が取り入れられているのは、ほとんどありません。
なお、これも誤解の無きようお伝え致しますが、「三(位・身)」を取り入れているから、あるいは、取り入れていないから「良いの?悪いの?」という趣旨では全くありませんし、それぞれの特色があるかと思いますので、そこに他意も悪意も全くございませんので。
それと、神社などにおいては、先ほどの「自然法則」そのものとして、例えば「岩木山というお山そのものをご神体」としている場合もありますし、また、「人間」として生きた(生活した)経験は持っていない、所謂「自然霊」という一種のエネルギー体をご神体として奉っている場合もあります(笑)
では、ここでも少し視点を転換してみます!