生前葬から考える魂の視点 ~手間を掛けさせたくない為なのか&手間を惜しんでいるだけなのか~

「生前葬」を行う際にも、様々な思いや動機がある事と思われますし、勿論、感謝という面も含まれている事であろうかと思います。
また、ご病気による余命を考えたり、あるいは、(ご病気も含め)事故やケガなどでお体が不自由になった(なってきた)面などを考慮して、直接お逢い出来る内に感謝を伝える意味での「生前葬」というケースも多々ある事かと思います。
なので、私は「生前葬」を否定や非難をしている訳では決してございません。

 

ただ、TVなどで紹介されている「生前葬」の中には、私個人の感覚としては、少し首をひねらざるを得ない?ようなケースも時折見受けられます。
そのケースとは、

 

お体も「健康で元気」な人が・・・

知人などを「招いて」執り行う・・・

 

「生前葬」です。
では、このようなケースが、どうして首をひねらざるを得ない?と私が感じるかを、皆さんはどのようにお考えになりますでしょうか?

勿論、このようなケースの「生前葬」においても、「今までの感謝」をお伝えするお気持ちもある事でしょうし、「これからも宜しく」という意味合いも込められているのかもしれません。
そして、ほとんどの「生前葬」の動機となっている、「他界後」に執り行われる「お葬式」などに対してのご足労など

 

(相手に)「手間」を掛けさせたくない為・・・

 

というのも偽らざる本音である事かと思います。
また、ここには、ある種の優しさや思いやりなども込められている事かもしれません。
ただ、

 

本当に今までの「感謝」をお伝えしたいのであれば・・・

しかも、「健康で元気」で、「生前葬」を行えるだけの経済的余裕もあるのであれば・・・

自分の方から「出向く」・・・

 

というのが「本来の筋」であろうと私には思えます。
そして、もし、このようなケースの「生前葬」であるのであれば、

 

(相手の元へ「出向く」という)自分の「手間」を惜しんでいる・・・

 

という思いがどこかに潜んでいるのでは?と、敢えて穿(うが)った見方も成り立ってしまうかもしれません。
なぜなら、このような「生前葬」においては、最初にご紹介した魂の視点の「お葬式」からの、

 

「生きている(残された)人」に向けて「嘆きや悲しみ(など)」を「和らげて」くれる面・・・

という視点が完全に欠落している・・・

 

からです。
これでは、良かれと思って執り行う「生前葬」が、「自己満足」や「自分本位」と捉えられかねない可能性も含まれてしまいます。

また、感謝をお伝えしたいのであれば、わざわざ「生前葬」ではなくとも、「お手紙」でも構いませんし、「これからも宜しく」という面を考えると、パーティーや宴会などでも構わないようにも感じます。
そして、パーティーや宴会と称するならば、「招かれる人」も「出欠」などを色々と自由に考える余地が与えられますが、「生前葬」と銘打ってしまわれると、なかなか「欠席」とは申し出辛くなるようにも感じます

 

なお、あくまで私個人が思う所ですが、「お葬式」は法律などで義務づけられているものでもありませんし、「お葬式」をしないからといって「死」に「気づけない」という事もありませんし、いわゆる成仏や浄化とも直接の関係はありません
これは「お墓」も同様です。

なので、その時々の状況なども考慮して、「お葬式」を執り行うも行わないのも、どちらでも構わないとも思います。
また、遺言などで「お葬式」を執り行わないようになどの「ご遺志」が示されている場合であっても、ご遺族の方々が、ここから先の「自分達の心」を整えるために「お葬式」を執り行う場合などでは、誰かに非難されるような性質のものでもありませんし、「他界されたご本人」も理解してくれる事でもありますので、それも自由で良いと感じます。

 

そして、知人などから「生前葬」の「ご招待」を受けた時は、ここまで深く考えたり穿った見方?をする必要性はありませんが、もし、今後、誰かを「ご招待」した上での、ご自身の「生前葬」などを考えている方がいらっしゃれば、