生前葬から考える魂の視点 ~手間を掛けさせたくない為なのか&手間を惜しんでいるだけなのか~

【 鍵を握るキーワードが「手間」 】

「生前葬」を、同じく魂の視点から眺めます!

「生前葬」を執り行う際にも、様々な思いや動機がある事でしょう。

勿論、先ほどと同じく、感謝という面も含まれている事でしょう。

 

また、病気による余命を考慮してのケースもある事でしょう。

あるいは、(病気も含め)事故やケガで体が不自由になった(なって来た)面を考慮して、

 

お互いに、直接逢う事が出来る内に感謝を伝える

 

というケースもある事でしょう。

故に、私は「生前葬」を否定や非難をしている訳では、決してありません!

 

 

ただ、TV等で紹介される「生前葬」の中には、

 

少々、首をひねらざるを得ない!?

 

というケースも見受けられます、、、

 

それが、

 

心も体も「健康で元気」な人が・・・

知人等を「招いて」執り行う「生前葬」!!!

 

です!

では、このケースの「生前葬」が、何故、首をひねらざるを得ない!?かの理由を、どのように考えますか???

 

 

【 想像力を働かせる 】

勿論、このケースの「生前葬」でも、「今までの感謝」を伝える気持ちもあり、「これからも宜しく」という思いも込められている事でしょう。

そして、多くの「生前葬」の思いや動機となるのが、

 

「他界後」に執り行われる・・・

予定は未定の「お葬式」に対する「ご足労」などの・・・

(相手に)「手間」を掛けさせない為・・・

 

というのが本音でしょう(笑)

また、ある面では、優しさや思いやりも込められている事でしょう。

 

ただ、

 

「今までの感謝」を本当に伝えたければ・・・

しかも「健康で元気」で、「生前葬」を執り行える経済的余裕もあるのならば・・・

自分の方から「出向く」!!!

 

というのが「本来の筋」と、私には思えます(笑)

 

 

そして、仮にそのような「生前葬」であるとすれば、

 

(相手の元へ「出向く」という)自分の「手間」を惜しんでいる・・・

 

という思いや動機が、どこかに潜んでいるのでは!?などの、穿(うが)った見方も成り立つかもしれません、、、

 

なぜなら、先ほどコメントした、魂の視点の「お葬式」における、

 

「生きている(残された)人」に向けて、「嘆きや悲しみ(など)」を「和らげて」くれる面・・・

その視点が完全に欠落している・・・

 

からです、、、

 

これでは、相手にとって良かれと思った「生前葬」が、

 

「自己満足」や「自分本位」と捉えられかねない

 

などの怖れ(可能性)も含まれるでしょう、、、

 

 

【 相手の立場になって考える 】

例えば、本当に今までの感謝を伝えたければ、「お手紙」でも構いません!

あるいは、これからも宜しくという思いや動機であれば、「パーティーや宴会」を開くでも構わないはずです(笑)

 

そして、パーティーや宴会であれば、

 

「招かれる人」も、「出欠」を自由に考える余地が与えられるが・・・

「生前葬」と銘打たれると、「欠席」とは申し出辛い・・・

 

という風に感じませんか???(笑)

 

 

【 どちらでも良い 】

そもそも、「お葬式」は法律で義務付けられているものではありません。

また、「お葬式」をしなくても、

 

必ずしも「死」に「気づけない」という事も無く・・・

「成仏や浄化」とも関係は無い・・・

 

というのが事実であり真実です。

勿論、「お墓」も同じです(笑)

故に、その時々の状況なども考慮して、「お葬式」を執り行うも行わないのも、どちらでも良いという事です。

 

 

また、遺言で「お葬式」を執り行わないようにとの、「遺志」が示されている場合であっても、

 

遺族の方々が、ここから先の「自分達の心」を整える為に・・・

 

という思いや動機であれば、「お葬式」を執り行っても非難される性質のものでもなく、

 

「他界した本人」も理解してくれる

 

というケースがほとんどなので、あまり「常識や世間体」に囚われず、自由に考えて下さい!