「人」としての愛念が失われつつある今にこそ・・・ ~煽り運転やドライブレコーダーからも~

「魂」としての愛念の欠如が生じてしまうと・・・どのような事が起こってしまうのか・・・

 

という点を踏まえ、そして、

 

「今」は事象として現れていなくとも、既に「今」の時点で端を発しているものがあるかも・・・

 

考えて気づく事がとても重要になってくるかと思われます。
なぜなら、

 

「今」ならまだ・・・防げる・変えられる事が多々ある

 

からです。
つまり、「今」気づき、「今」何かを変えていければ、

 

将来において「魂」の愛念の欠如により起こり得るかもしれない事象を「炙り出さず」に済む

 

という事です。
そして、もし仮に、「今」において炙り出されている事象が「魂」としての愛念の欠如の兆しであるとすれば、今一度「人」としての愛念の欠如に目を向ける事で様々な事が解決可能になっていきます。
そして、その事に気づき、変化させるキッカケになる言葉があります。
それは、

 

喉(のど)元過ぎれば熱さを忘れる

 

です。
これは「反面教師」として活用出来る言葉です。
これまでも様々な出来事が起こり続けてきている事は、先ほどの「人」としての歴史からも明らかであると思います。
にも関わらず、減らないどころか、更に輪を掛けたような出来事が起こっているのは、まさに、

 

喉元の熱さを忘れつつ・・・臭い物に蓋をしてきた・・・

 

という所に端を発しているように感じます。
そして、反面教師の活用というのは、

 

今一度、喉元が熱かった出来事などを振り返る・・・

 

という視点です。
これには、個人的な出来事も含まれますが、

 

(一見すると自分とは関係ないように思われる)世の中・社会の出来事

 

の方が、今後は、より重要になってきます。
今回の着付けの出来事や旅行代理店でのケースなどは、利用した方々にとっては、言わば「通り魔」的な出来事です。
わざわざ前もって会社の財務内容などを検討する事も出来ませんし、ましてや、そのような事をしなければ安全・安心でないのであれば、社会そのものが機能しなくなってしまいます。
そして、なぜ、敢えて「人」と「魂」とを区別したかと言いますと、

 

「人」としての愛念の欠如の多くは、「個人的」な喉元が熱かった出来事を振り返る事により解決出来やすくなる

という傾向がありますが、

「魂」としての愛念の欠如の多くは、「社会・集団的」な喉元が熱かった出来事を振り返る必要性が出て来る

 

という傾向に現れやすいからです。
つまり、今回の着付けの出来事にせよ、スポーツ選手の事件にせよ、自分は成人ではないから関係ない、あるいは、自分はスポーツ選手ではないから関係ない、あるいは、日本から遠い国の出来事などは自分には関係ない、などのような、

 

(過度の)無関心が「魂」としての愛念の欠如を助長してしまう

 

という事です。
これが行き過ぎた場合には(既にそうなりつつあるようにも個人的には感じますが)、自分には関係のない、起こりようのないと思われる出来事が、