「不幸」という言葉が持っている、多くの「間(ま)」が伴うイメージ
によるものだからです。
では、まず、
あなたにとっての「幸せ」とは何でしょうか?
答えは人の数ほどあるでしょうし、一人の人が幾つもの幸せを持っているかと思います。
それと同じように、
不幸と思える事柄も人の数ほど様々である
という事です。
そして、
「幸せ」とは、それ自体が完全である
という性質があります。
つまり、「幸せ」とは、
今この時点で既に完全でありながらも、さらに幾らでも積み重ね上げていけるもの
という性質が備わっています。
一方の「不幸」における性質とは、
「不幸」とは、一見すると不完全な面があると思われる傾向がある
という点です。
そして、
「不完全」とは、何かが「欠けて」いる
と、一見すると思われてしまう状態であり、この、
「欠けて」いるという箇所が「間(ま)」となっている
という状態です。
そして、この、
「間(ま)」を自分の力で埋めていくことが「幸せ」
となり、この、
「間(ま)」を他の人や何かの状況を悪用して、無理矢理に埋めようとすると「魔(ま)」に変質する怖れが出てくる
という大きな違いがあります。
ちなみに、「幸せな人を見ていると自分も幸せな気持ちになれる」というのは、「幸せのお裾分け」のようなもので、これは「幸せの積み重ね」となっています。
「不幸」と思えてしまう事柄の「源」には、不安や心配、あるいは、他の人に対する羨望など、多々ある事と思います。
このような感情は程度の差があるだけで誰でも持っているものです。
勿論、私自身も同様です。
そして、この感情が産み出されている源には、
他者との比較による幸せの定義
というものが存在しています。
つまり、今回のような不幸の手紙やメールを送りつける人は、
まず、その人自身が不幸と感じている
という点は絶対的に存在しています。
そして、自分以外の他の人を、自分以下の不幸の思いにまで陥(おとしい)れようとすることで、
相対的に自分が幸せである、と錯覚を起こしている
という安堵感に繋げている傾向が見受けられます。
そして、そのような手紙やメールを受け取ったあなたが他の人に送りつけようとする時、