可能性の発見と焦点合わせの練習法 ~路線バスの旅から~:人生は変更可能

負荷をかけて鍛えるためにオプションとして独自の「制限」を設けた「ルール」も変更可能

 

ということです。
現在では、先ほどの最低限の基本的な「ルール」の例えとして身体上の観点における、「性別」の変更ということも可能となっています。
人生という旅路においては、早足で進む時もあれば、歩みの速度を緩める時期、あるいは、所々で立ち止まって休んでみたり、時には周り道で進むこともあることでしょう。
そして、私達が人生において停滞している、道に迷っている、あるいは、なかなか前に進まないと感じる時は、

 

他の「可能性」を発見出来るチャンス

 

と捉えることも出来ます。
青森~東京間を最初から飛行機で旅することも出来ますし、新幹線のグリーン車に乗って快適に旅することも出来ます。
また、青森から仙台までは路線バスで旅してきたが、途中の仙台からは高速バスに乗ってその後の旅をすることも出来ますし、新幹線で仙台まで旅してきたが、その後はで旅をするということも出来ます。

私達が人生において袋小路に入っていると感じる時は、

 

意識の焦点がある一点のみに注がれている

 

という状態の時が多々あります。
この意識の焦点が一点のみに注がれているというのは別に悪い状態ということではありません。
このように一点に注がれている時というのは、

 

目標に向けて加速している時

 

でもあるからです。
しかし、他の視点から見ると、袋小路の中で加速をし続けても前に進むことは困難なケースもあります。
そして、このような状態の時は、

 

周りが見えていない状態であり

表現を変えると、

他の「可能性」にまだ気づいていない

 

という状態とも言えます。
今まで路線バスで旅をしてきたが、繋がらない区間ではゆっくりと歩いてみる、あるいは、繋がらない区間をタクシーで移動することも出来ます。
あるいは、一つ前のバス停に戻ることで、実はそのバス停は高速バスにも乗ることの出来る起点であるかもしれません。
そして、自分で自分に課した路線バスのみという「制限」でも、そのことによりその先に全く進めなくなってしまうのでは、本来の目標である東京に辿り着くということが出来なくなってしまう可能性もあります。
そして、このようなオプションとして自分で自分に課した「制限」というのも、実は、

 

他の「可能性」にさらに気づきやすくするために自分で設けた「ルール」

 

ということも多々あります。
なので、オプションとしての「制限」という「ルール」は変えることも出来ますし、変えても良いということです。
なぜなら、そのオプションとしての「制限」は詰まる所、

 

自分の他の「可能性」を発見した

 

という時点において、本来の役割を果たし終えているからです。
このように、オプションとしての「制限」を課している場合でも、あるいは、そうでない場合であっても、

 

人生の途中において色々なことが変更は可能である

 

ということに気づき、それを自分に許すということも打開の一つとなります。
そして、この「可能性」の発見を難しくしている一つの中に、

 

ある種の社会的常識

 

というものが存在しています。
なお、社会には必ず複数の他者という方々が存在し成り立っていることと、そのような他者を尊重するという意味も含め、先ほど述べた最低限の基本的な「ルール」と同様の意味合いでの必要な社会的常識は存在します。
ここでのある種の社会的常識というのはそのような意味合いとは別のものです。

 

私が産まれる前には「末は博士か大臣か」という言葉がよく聞かれたそうです。
これは子どもの行く末を期待しての思いが込められた言葉でもあることと思います。
また、私が中学・高校生の頃は、バブル経済まっただ中の時期でした。
この頃は、良い大学に入り、良い会社に入り、一杯お金を稼ぐことが人生の幸せである、という社会的風潮が存在していました。
別にこのような人生が悪い訳ではありません。

ただ、ここで気づいて頂きたいのは、様々なある種の社会的常識や社会的風潮というのは、