【 切羽詰まると愚かさの極みに 】
1990年3月、彼女は一番付き合いの古かった、東洋信用金庫の支店長を訪ねます。
すると、彼女は支店長に、
偽(架空)の預金証書を作成して欲しい
と頼み込みます。
支店長は、一度は拒否するものの、彼女との取引が停止になる事を怖れ、偽造に応じました。
こうして、彼女は偽造の預金証書を担保にして、別の金融機関に繋ぎ融資を依頼していきます。
つまり、
蟻地獄の如くの自転車操業
の始まりです、、、
【 個人も企業も「自分のした事は自分に反ってくる」 】
1991年にバブルが崩壊し、彼女への貸付総額は2兆円以上になっていました。
あまりにも大金であるが故に、メディアも取り上げ始め、警察も動き出します。
そして、彼女は最も親しかった興銀の担当者に、担保にしたのは偽造した預金証書であると打ち明けます。
すぐに(当時の)大蔵省へ通報され、調査が始まります。
すると、他の複数の金融機関でも偽造の預金証書が見つかり、大蔵省は「取り付け騒ぎ」になる事態を怖れます。
ちなみに、取り付け騒ぎとは、金融機関の破綻が噂となり、預金者が一斉にお金を引き出す事です。
偽造した預金証書の総額は3420億円で、これは東洋信用金庫の「全預金量」に匹敵する額でした。
事態を重く見た大蔵省は、密かに日本銀行から東洋信用金庫へ現金数百億円を搬入させました。
更に、大蔵省の職員を東洋信用金庫の全支店に、人知れず配置させました。
それと同時に、検察庁や警察に相談し、事件として告発する段取りを整えました。
1991年8月13日、東洋信用金庫は記者会見を開いて事実を公表して謝罪し、取り付け騒ぎは回避されました。
そして、記者会見の直後、預金証書の偽造で彼女は逮捕されました。
その後、懲役12年の刑を言い渡され、73歳の時に和歌山刑務所に服役しました、、、
その後、東洋信用金庫は1年後に吸収合併され、消滅しました、、、
その後、興銀は金融再編で統合され、名前が消えました、、、
【 本当の顔はどちらなのか 】
1930年、彼女は奈良県で5人兄弟の3番目として、貧しい家に生まれました。
定職に就かない父親と、毎朝お経を欠かさない信心深い母親と共に、6畳一間に7人の生活でした。
高等小学校(現在の中学校)を卒業すると、すぐに大阪に出て働き始めました。
20歳で結婚し一児を授かるも、4年で離婚しました。
その後は、バーのママやすき焼き店で働き、1965年に35歳で料亭を開業しました。
しかし、彼女は客の前では、豪農の家の生まれで高等師範学校を卒業したなど、「嘘」の経歴を並べ立てました。
そして、逮捕後の取り調べでは、彼女は「素直」に罪を認め、「悪い事をしたから、3000億は働いて返す」と話しました。
そして、取り調べを担当した人は、彼女には金融知識はほとんど無いものの、嘘を付くような人では無い印象を持ったそうです。
一方、偽造の預金証書の作成を頼み込んだ場面では、「押しの強い」顔も持ち合わせていた事が、裁判で分かりました、、、