【 対立する夫婦の意見が生んだ悲劇 】
ハーバーは19歳の時に、17歳のクララ・イマーヴァールと出逢い、恋仲になりました。
しかし、その後に疎遠となり、13年後に二人は「再会」します。
その頃のハーバーは、化学者として注目され始めていた時期でした。
一方のクララは、ブレスウラ大学で女性初の博士号を化学分野で取得し、研究者の道を歩み出そうとしていた時期でした。

二人は再会を果たした4ヶ月後に結婚するものの、ハーバーは家庭を顧(かえり)みず研究に没頭し、クララは家庭に入る事を求められ、研究者の道を諦めました。
そして、毒ガス開発で夫婦の意見が「対立」すると、ハーバーはクララに反論します、、、
ハーバー:
『 科学者は平和時には世界に属するが、戦争時には祖国に所属する。 』
更に、アインシュタインもハーバーの毒ガス開発を「非難」すると、ハーバーは同じく反論しました、、、
ハーバー:
『 国家の存亡が科学の力に懸かっている総力戦においては、科学者もまた一人の戦士だ。 』

イーペンの毒ガス攻撃から9日後の5月1日、戦場から戻ったハーバーは、「再び」クララと意見の衝突が起こります。
そして、翌朝、クララを自死を遂げました、、、
それから僅か数日後、ハーバーは戦場に復帰し、更に様々な毒ガスの開発に邁進します、、、
【 究極の毒ガスが誕生 】
その後のハーバーは、「究極の毒ガス」と呼ばれるマスタードガスを作り出しました。
軍服を容易に通り抜け、皮膚に触れただけで火傷を負わせ、吸い込むと空気1リットル当たり僅か1.5ミリグラムで窒息死します。
そして、「再び」イーペルで使われました。
マスタードガスを取り込んだガス弾100万発を使い、1万5千人の死傷者が出ます。
すると、連合国軍もマスタードガスを使い、毒ガス戦の「応酬」になりました。
マスタードガスはガスマスクでも防げない事から、「現在でも」毒ガスの代名詞になっています。

【 梯子(ハシゴ)を外されたハーバー 】
1933年になると、ヒトラー率いるナチスが政権を握り、ユダヤ人迫害政策が始まりました。
ハーバーが所長を務めていた研究所も、ユダヤ人科学者は全員が追放されました。
ハーバーは退役軍人だったので、追放を免れるものの、自ら辞職を申し出ました。
そして、提出した辞職願の中で、ナチスを抗議した事からドイツを離れ、ハーバーはさすらいの身となりました。
1934年、エルサレムへ向かう旅の道中、スイスのバーゼルで人生を終えました、、、
【 受け継がれる負の遺産 】
ハーバーの死から5年後、「今度は」第二次世界大戦が勃発します。
すると、ナチスによるユダヤ人の大虐殺(ホロコースト)が行われました。
そして、毒ガスの「チクロンB」が強制収容所で使用され、これは「以前に」ハーバーが開発した害虫駆除薬でした。
虐殺されたユダヤ人の中には、ハーバーの親族や研究仲間も多数含まれました。

そして、「その後も」毒ガスは世界中で開発され、広まりを見せ続けています、、、
1952年、イギリスは人類が生み出した中で、最も毒性が高いVXガスを開発しました。
1980~1988年、イラン・イラク戦争ではイラクが神経ガスを使用しました。
これにより毒ガスは、開発途上国やテロリストでも簡単に作る事が出来る、「貧者の核兵器」である事が実証されました。
1995年、日本では地下鉄サリン事件が起こりました、、、
【 功績と戒め 】
ハーバーが所長を務めた研究所は、1953年にハーバーの名を冠した「フリッツ・ハーバー研究所」に改称しました。
この研究所は、「現在でも」科学研究の世界的拠点の一つですが、
ハーバー・ボッシュ法の「功績」を称えると同時に・・・
毒ガス開発の「戒め」を忘れない為に・・・
との思いが込められているそうです、、、

そして、ハーバーは次の通り話していました、、、
ハーバー:
『 毒ガスによって戦争を早く終結出来れば、無数の人命を救う事になる。 』
では、番組の紹介は終了です!
アンチノミーの視点を当てはめて、「考えて」みましたか???(笑)