行き過ぎた効率化が招く事態とは ~人間焼却炉&レプリコンワクチンから~

【 火葬が広まった経緯 】

プリューファーは、23歳の時に第一次世界大戦に従軍します。

そして、軍を除隊した後に会社に戻り、29歳の時に焼却技術部門に配属されました。

この部署は、主に工場のボイラーを扱っていました。

 

しかし、プリューファーが担当したのは、遺体の火葬設備でした。

元来、ヨーロッパではキリスト教が広まっていたので、土葬が一般的でした。

なぜなら、火葬は「異端者や魔女裁判の受刑者」の死刑執行に使われていたので、拒否感が強かったからです。

 

 

しかし、19世紀後半の「産業革命」で人口爆発(増加)が起こり、墓地が不足します。

火葬で遺体を灰にすれば、埋葬出来る「数が増やせる」事から、広がりを見せ始めました。

そして、プリューファーは、今後は更に火葬の市場が「拡大する」と考え、火葬を徹底的に研究します、、、

 

【 ナチスに救われたプリューファー 】

この頃、第一次世界大戦の敗戦で莫大な賠償金を課されたドイツは、1929年の世界大恐慌も相まって、空前絶後の不況に陥りました。

プリューファーは40代を迎え、会社から「解雇」をほのめかされていました。

ここ迄、それなりに「順風満帆」だったプリューファーは、「不安の渦」に巻き込まれていきます。

 

プリューファーの危機を救ったのが、ヒトラー率いるナチスが政権を握った事で、失業対策と称す大規模公共事業が行われ、経済が劇的に回復した状況でした。

プリューファーは解雇を免れると同時に、社内で自分の立場を「強固にする」事を決断します、、、

 

 

【 後押しした火葬の合法化 】

1934年5月、ドイツ全土で火葬が合法化されました。

これにより、火葬は土葬と同等の埋葬と認められ、火葬の普及が促進されていきました。

そして、「死の尊厳」を守る為の規定として、火葬の要件が法律で厳格に決められます。

 

○ 一人ずつ棺に入れる

○ 煙や臭いを発生させない

○ 遺体を直接、炎に触れさせてはならない

○ 燃焼により生じるガスも、遺体に触れてはいけない など

 

そこで、プリューファーは新たな火葬設備の設計に取り掛かります。

そして、炉室内を1、000度の高温にして、遺体を自然発火させる、革新的で尊厳ある火葬設備を考案しました。

更に、火葬を普及させる為の講演会で、プリューファーは次の事を訴え続けます。

 

プリューファー:
『 火葬は、死体処理のレベルに落ちてはならない。 畏敬の念を考慮しなければならない。 』

 

こうして、多くの火葬場でプリューファーの設備が採用され、プリューファーは会社を火葬設備の「トップメーカー」に押し上げました。

 

 

【 狂い始める歯車 】

1939年、ナチスはポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発します。

すると、同年にナチス親衛隊からプリューファーに「依頼」が入りました。

それは、捕虜を収容しているブーヘンバルト強制収容所で使う、「焼却・処理」設備の依頼でした。

 

この収容所には、元々政治犯を中心に3千人が収容されていた上に、更に数多くのユダヤ人が収容される事になりました。

衛生状態が悪く、疫病が蔓延し、1ケ月で800人の死者が出ていました。

故に、ナチスは大量の遺体を、「迅速かつ跡形も無く」処理する要望を出しました。

 

そこで、プリューファーは2つの炉を1つの炉に合体させ、遺体を燃やす時に出る熱エネルギーの「波紋(共鳴)効果」を活用して、処理の効率化に成功しました。

しかし、この時には火葬法の厳格な要件も「無視」しました。

 

 

プリューファーは、遺体を棺に入れず、炎で直接焼却し、完全に灰になる前に、次々に炉に遺体を入れるよう指示します。

炉室内は酸素不足で不完全燃焼になり、黒煙と悪臭を発生させます。

 

この指示により、処理時間は2時間から15分に「短縮」する効率化に成功します。

そして、図面にも手を加え(改竄し)、本来の火葬設備では「火葬室」と称する設備を、ゴミや動物の死骸を燃やす「焼却室」と偽りました。

 

こうして、プリューファーはナチスから「認められる」と同時に、一般の火葬設備の設計も続け、ナチスと一般の仕事の「両方」を受注し続けていきます。

つまり、プリューファーは死の尊厳を「使い分けた(火葬と焼却・処理)」という事です、、、