赦しを学ぶには身近な所から ~この世で全てを明らかにする必要は無い~

【 世間の目は「加害者の子」のみの二者択一に陥る 】

周りからは「人殺しの息子」と呼ばれ続けました。

親戚に引き取られるものの、次第に学校に行かなくなり、高校も3日で中退しました。

盗みをしたりバイクで暴走したりなどで、児童養護施設や少年鑑別所を経て、その後は公園のトイレなどで野宿(寝泊まり)するようになりました。

 

そして、ある日、大山さんは薬の過剰摂取(オーバードーズ)をして自殺を図ります。

大山さんがその時の心境を語っています。

 

大山さん:
『 お母さんごめんね。 こんな僕でごめんね。 今そっちに行くからね。 』

 

 

強烈な吐き気で目覚めますが、今度は「死ねなかった」との思いを抱くようになりました、、、

 

実は、母を殺害する約1年前に父は養父も殺害していました。

鉄アレイで殺害後、交通事故に見せかけ同じく保険金を搾取していました。

こうして2005年に死刑判決を受け、2011年に最高裁で死刑が確定しました。

 

そして、現在の大山さんは家族も知人もいない名古屋市に来て15年になります。

仕事は風俗店員として働いていますが、一般職をやっていた時期もあるものの、「父親が殺人犯」である事が会社に分かり解雇(クビ)になり続けて来ました。

 

【 父との面会や手紙のやり取りの発端 】

2013年頃には父から届く手紙を確認する為に、ポストを覗くのが日課となっていきました。

と言うのも、大山さんは一審判決後から拘置所の父と面会や手紙のやり取りをするようになっていました。

そして、父の手紙には大山さんを案じ、楽しかった想い出などが綴られていました。

 

しかし、当初は面会しようと思うに至った理由の一つは「今迄の憎しみを父にぶつける」というものでした。

そして、二つ目の理由は12年間大山さんが見て来た「家族仲や夫婦愛が本物であった事を確認したい」というものでした。

そして、母を殺した理由を「父から直接聞きたかった」というものでした。

 

 

【 揺れ動く気持ちの変化 】

しかし、いざ面会してみると、憎しみ続けた父の姿があまりにも弱々しく変わり果てていて、父は震えながら涙を流していました。

そして、父は大山さんに「謝る事しか」出来ませんでした。

その姿を見て以来、次第に大山さんは「父を責める」事が出来なくなっていきました。

 

大山さん:
『 絶対に赦す事は出来ないけど、生きて罪を償って欲しいと思いは変わりました。 』

 

そして、父は母を殺害した事を「後悔している」と話しました。

そして、養父を殺害した後に自分が疑われるようになり、母から離婚をほのめかされた事が殺害の動機と語りました。

保険金が目当てではなく、「母を愛していた」との「父の言葉」を大山さんは「信じる」事が出来るようになっていきました。