「われわれは子孫になにをのこすか」
ということです。
以上のべてきたことの結果として、私の答えは、簡単です。
地球。
自然と言いかえてもかまいません。
人間の生命が維持できて、それぞれが快適にその生涯を終えうる生態系を持った地球を、次代にのこす、ということです。
そのことにただ一つ必要なことは、抑制だけでしょう。
(中略)
二十世紀後半に巨大化した科学と技術、さらに産業、その巨大化だけをとらえて、人類は、他の生物に対してそれを誇りうるでしょうか。
科学や技術が、もう一つの地球を造りうるなら、誇ってよいと思いますが、そうでないかぎり、抑制されるべきだと思います。
(中略)
「人類はやがて人類をほろぼすだろう」と叫びたくなる気分をおさえかねてもいます。
(中略)
さきにのべた地球についての不安は、杞憂(※ ありうべからざることを心配すること)ではなく、世界じゅうに共有されつつあります。
が、たれにこの「杞憂」を訴えていいか、相手がいないのです。
国家や企業にとっての関心事は「今日とあすのパン」であって、百年さきのパンは、架空のことなのです。
やはり、
「ひとびと」
に訴えるしかありません。
ただ、私がここでしきりに使っている「ひとびと」というのも、じつは、架空の概念なのです。
(中略)
この世に、国家やイデオロギーを越えた存在で、しかもそれらに影響をあたえうる「無名の、しかも良識ある多数の個人群(ひとびと)」など存在するはずがなく、従って私は居もしない相手にむかって訴えようとしているのです。
しかし過去において存在しなかったといっても、将来、百年後に、ひょっとすると出現するかもしれません。
そういうかぼそい可能性にむかってしか訴えることができません。
「子孫に、かれらが生命を保つために依存しうる自然を残さねばならぬ」
といっても、残すという巨大なエネルギーを発揮するには、思想が必要でしょう。
その思想は、それぞれの民族の思想的風土から出たものである場合が、もっとも説得性をもつと思います。 』
では、司馬 氏からのメッセージもここで終了ですが、ここでは次の一点を考えてみて下さい!
(司馬 氏の講演)「当時(過去)」からそのような兆しが見えていたのだから「今」に至っているのが当たり前なのか・・・
それとも「当時(過去)」から何も変えようとして来なかったから「今」に至っているのが当たり前なのか・・・
では、視点を極端(極論)に変化させますが、
1,000年後であれ・・・100年後であれ・・・
いえいえ・・・明日ですら本当に当たり前に存在しているのかすら・・・
私達の誰もが分かりよう(知りよう)がない・・・
という事になりますが、一方で今頃の時期になりますと、少し先のクリスマスであったりお正月などを楽しみに心待ちにし、予定を立て始めたりなどは多くの方がする事かと思いますし、それは私自身も同様です(笑)
このような事は一見(一読)すると、