当たり前とは本当か!? ~地球から酸素が無くなる日&司馬遼太郎 氏の洞察より~

『 「あの国は、ひとびととしてはすばらしくいい。だが、国家としてはじつにいやな国だ。」

  という言い方を、しばしばききます。
  近代国家というものは、自国の国民の幸福をもたらす機関として成立し、二十世紀後半になって多くの国家が誕生しました。
  こんにち、大小無数の国家が、自国の利益という二十世紀の神話を守るために、怪物群のように地球上を横行しています。

 

  どの国にとってもその隣国は、悪魔に似ています。
  なぜなら、隣国は、自国にとって荀子の思想(※ 「人間の本性は悪である」と説く)でいうところの〝利己的欲望〟しかもっていないからです。

たとえ隣国が現在おだやかな微笑につつまれているとしても、べつの国にとってはその微笑はにせもので、過去においてこういう悪をおこなったとして、決して油断をすることがなく、さらには他の国家に対して善意にあふれた国家など、この地上に存在しない、ということを、どの国民も知っていますし、そのとおりなのです。

 

  そのくせ -以下は糖分(※ 氏が言う所の糖分とは、人間について多分に甘い観察という謙虚さからの姿勢)の部分で言うのですが- こんにちほど、どの国の国民も、外国人が大好き、という時代はありません。
  人間は、決して絶望的な存在ではないのです。

  むしろ、国家が国家間で発揮するエゴこそ、二十一世紀の重大な課題になるでしょうし、この課題が、ひとびとのレベルで解決されないかぎり、われわれの子孫は、こわれてしまった地球しか相続しないでしょう。

 

「ひとびと」

  この言葉を使うとき、そんなものが、この国家群時代のどこに存在するのか、という皮肉な感情が、つい動きます。

  (中略)

 

  いま「人類がそういう能力を持った(※ 核兵器を指しています)」と言いましたが、厳密にいうと、人類ではなく国家群がそういう能力を持ったのです。
  しかもその国家群は、他国に対して利己的欲望を基礎として思考する擬人機関なのです。

  むろん、この擬人機関にも、少量ながら理性はあります。
  欲望と自己保全について打算的な計算をするための理性であり、あるいは自己のイデオロギーをどう対外拡大するかという計算のための理性です。

 

 国家エゴがあってもかまわないと思いますが、しかし、「地球上のひとびと」という、国家が今まで思考したことがないレベルで物を考え、感じ、行動する国家に変えないかぎり - また国家がもつ利己的欲望の生理機構から、毒性をすこしでも抜かないかぎり、われわれはこの怪物のような〝二十世紀的国家〟を子孫にうけわたすべきではない、と思います。
  ニトログリセリン入りのびんを、坂の下にいる子孫にむかって「これをうけとれ」といってころがすようなものでしょう。

  (中略)

 

  幸い、そのこと(※ 行き過ぎた開発による自然破壊の事を指しています)についての反省が、「ひとびと」のあいだに盛りあがってきているように思えます。
それら「ひとびと」の危機意識が、国や自治体をどのようになっとくさせ、また企業の没理想的なエネルギーに対して、どのように競りあい、話しあってゆくかが、この国土の運命にかかわる課題です。

  (中略)

 

  二十世紀後半の文明は、大気や水の汚染ということをふくめて、地球という、生物が生存する天体を、生存の条件の限界などおかまいなしに食いつづけようという方向にすすんでいます。

  このことについては、先進国が悪く、開発途上国は善である、という図式はまったく成立しません。
  人類の総がかりといっていいと思います。

  この会合のテーマは、