過去の自分との訣別 ~「先生」をシンボルや象徴として眺めてみる~

現在に限りませんが、学校においてはやはりイジメというのが大きな問題であると感じます。
そして、職員室内での大人(先生)同士のイジメも存在すると時折耳にしたりします。
「先生」という存在が生徒に「勇気やパワーを与える人」とすれば、

 

人生を安心して生きて大丈夫だよ!

 

導いていくのも大きな役目となっているかと思われます。
その安心の中には社会において活用出来る知識なども含まれているかとは思います。
しかし、仮に職員室内における大人(先生)同士のイジメのようなものが存在しているとするならば、生徒に対して、

 

人生を安心して生きて大丈夫だよ!

 

言えるでしょうか?
子どもの社会は大人の社会の反映であることがよくあります。
そして、このような問題が存在するとするならば、そのような職員室内でのイジメを二度と起こさないよう、

 

大人(先生)側における過去の自分との訣別

 

真っ先に必要になることと感じます。
そして、大人社会におけるイジメというのは、一見すると正論をぶつけているように見えてしまうこともありますが、その根本は、

 

嫉妬 = 妬(ねた)み・嫉(そね)み

 

であることが大半と思われます。
妬みや嫉みなどの嫉妬という感情は誰でも持ち合わせています。
私自身も多少感じることも勿論あります。
しかし、それが故に、

 

イジメと同一とは気づきづらい

 

という点があります。
生徒間のイジメに対しては、当然の如く生徒同士の関係などを「先生」や周囲の大人がちゃんと見ていくことも必要ですが、大人社会におけるイジメに目を背けたままでは、先程来のドラマ内で表現されているように、

 

過去の自分達の亡霊

 

との対峙から目を背けることと同様に、生徒に対して、そして、何より自分に対しての「勇気やパワーを与える人」となり得るのに困難を生じてしまうかもしれません。
そして、これを解決していく一つの方法が先程からの、

 

過去の自分との訣別

 

ということになります。
なお、「過去との訣別」というのは、様々な過去から学んだことを無くしてしまうことではありません。
学んだことは活かしながら、

 

ある過去の出来事などに対して未だに引きずっている感情を手放す、あるいは、新しく捉え直す・意味づけする

 

という意味合いでもあります。
ここまでは、「先生」というキー(鍵)から学校という職員室内での出来事を例として挙げましたが、このことは他の職場や井戸端会議的なものでも同様であり、残念ながら大人社会全般に当てはまっていることでもあります。

 

それでは、別の視点から医師という「先生」を見ていきます。