『 痛みにも悩みにも貴賤はない。
周りにどれだけ陳腐に見えようと、苦しむ本人にはそれが世界で一番重大な悩みだ。
救急車で病院に担ぎ込まれるような重病人が近くにいても、自分が指を切ったことが一番痛くて辛い、それが人間だ。 』
カウンセリングを行っている人も、あるいは誰かから相談を受けた方でも、自分のフィルターを通して物事を判断しがちです。
「そんなのは悩みのうちに入らない」「気にしすぎだよ」などと声を掛けたくなる心情があるケースも理解出来ます。
100%相談の内容を相手と同じように共有するのは夢の中の出来事なのかもしれません、、、、、
そして、「ひとみ」は職場でイジメに遭っていました。
先ほど「「話せるのに聞こえない」という点で、健聴者から理解されにくいのは、中途失聴・難聴の方が多い」という点が背景にあります。
そして、先述の心情の吐露に続き、「ひとみ」は以下のようにも綴っています。
『 イジメは「聞こえ」さえすればそんなトラブルに遭わなかったという恨みもあるのだが、「聞こえ」があったからと言って本当に社会生活が巧くいったかどうかなんて分からない。 』
そして、この小説の中では次のことが描かれています。
『 音から隔絶され、そのことによって次は健聴者とのコミュニケーションが阻害される。
聴覚障害で最大の問題は、人間としてのコミュニケーションから隔絶された状態に置かれることになるのを世間になかなか認知されないことだ。
この困難の根の深さを想像だけで把握できる人間はまずいない。 』
以上、「レインツリーの国」から紹介しましたが、私がこの小説から感じたことは、まず、
(カウンセリングを行う人や、誰かから相談を受ける人にとって)
どんなに些細な悩みや苦しみに思えても、それを声に出して訴えている内容には、真摯に耳を傾ける
ということです。
聞く側が始めから一部の扉を閉ざしていれば、相談や話しをする側はそれ以上に心情を語ってくれることは、まず無いと思います。
逆の立場で考えてみれば理解出来ることでしょう。
そして、やはり一番大切なのは、
コミュニケーションを心掛ける
ということを感じます。
この小説でもテーマの本質は「障害」だけではなく「コミュニケーション」だと思います。
先ほど100%の共有は夢の中の出来事なのかもしれません、、、、、とコメントしましたが、
「 この困難の根の深さを想像だけで把握できる人間はまずいない。 」
という一節から来ています。
100%分かり合うというのは、障害があろうとなかろうと難しいのかもしれません。
しかし、「何が100%なのか?」という見えない答えでもあります。
「伸行」は「想像力」を使って色々試みます。
上手く行かない経験もします。
しかし、「ひとみ」との「コミュニケーション」を絶やすことなく、そして、次々に色々と試し、実践していくことで物語の結末に辿り着きます。
その結末も「100%」ではないのかもしれません、、、、、
なぜなら、その先にも「未来」が広がっているからです、、、、、
今回は「カウンセリングの心・思い」というテーマでしたが、答えがある訳ではありません。
そして、これを読んで下さった方々の数だけ、色々な「心・思い」があることと思います。