生き金と死に金を分けるものとは ~真の動機で変わる人の縁~

第564回:『 生き金と死に金を分けるものとは ~真の動機で変わる人の縁~ 』

【 その他参照ワード:薩摩治郎八、バロン薩摩、パリ日本館、蕩尽、放蕩、美味しんぼ、メタファー 】

S.Light.M(カウンセリング・ヒプノセラピー・レイキヒーリング・各種セミナー&認定講座)の瀬川です!

この世という世の中や社会では、

 

お金が無ければ、大変に困った状況に陥ると同時に・・・

お金が幾ら有り余っていても、持て余す事は無い・・・

 

というのが、「ある面」では事実であり真実です。

そして、

 

贅沢は、あっという間に身に付きやすい一方で・・・

一度、身に付けた生活水準は、なかなか落とし難い・・・

 

という「側面」があります。

 

ただ、

 

贅沢が悪い訳でもなく・・・

清貧が美徳でもない ・・・

 

という視点は大切です!

 

 

では、番組『 先人たちの底力 知恵泉 』(Eテレ)から「 伝説の “蕩尽王” 薩摩治郎八 金は粋に使え 」の回を少し眺めます!

 

【 バロン薩摩と呼ばれた男 】

薩摩治郎八(1901~1976年)は、東京都千代田区にある日本有数の木綿問屋の三代目として生まれました。

そして、祖父の治兵衛が幕末に木綿の輸入で巨万の財を築いた事が由来です。

そして、治郎八は月の小遣い3千万円を貰い続け、酒に美食に女性にと、

 

湯水の如くお金を浪費

 

しました。

その額、現在の価値では600億円!?とも言われます!

 

このような贅沢極まりない暮らしぶりから、

 

バロン薩摩

 

と呼ばれました(笑)

ちなみに、バロンとは貴族の称号、あるいは、爵位の一種という意味です!

 

 

【 パリで開花した!?放蕩生活 】

治郎八が暮らしていた屋敷の中は、珍しい舶来品で溢れ返っていました。

そして、幼い頃から外国の文化に馴染む機会恵まれていたが故に、強い憧れを抱き、文学や芝居にのめり込むようになりました。

そこで1920年、19歳の治郎八はイギリスへの留学を決断します!

 

しかし、オックスフォード大学への入学を目指すものの、下宿先がロンドン郊外の小さな村にある牧師の家で、周囲には文学も芝居も芸術も無く、苦痛の日々を送っていました。

そして翌年、音楽の勉強をしていた妹に会う為に、フランスのパリを訪れます。

すると、バレエやオペラや音楽などの華やかな舞台に魅了され、治郎八は劇場の虜(とりこ)になってしまいました(笑)

更に、当時のパリは第一次世界大戦の抑圧から解放され、自由な空気が漲(みなぎ)っていました。

 

治郎八は、よく言えば「初志貫徹」、悪く言えば「頑固一徹」の性格で、家族の反対を押し切り、1922年にパリへ移住しました。

そして、社交界デビューを果たすものの、当時のパリは「狂乱の時代」と呼ばれ、酒や美食や女性に加え、高級車や宝石類などを貪(むさぼる空気が蔓延していました。

故に、月の小遣い3千万円だけでは足りず、実家に仕送りを催促する事も多々ありました(笑)

 

 

こうして、バロン薩摩の所以たる、

 

放蕩生活が開花する!?

 

という展開になりました!