【 水島(下町)の被災体験 】
水島は日比谷の帝国ホテルにいた時に、地震に遭遇しました。
揺れが治まり、家路に着く為に外に出て歩き出すと、被災直後の日比谷では様々な「憶測」が飛び交っていました。
例えば『 (間もなくの)午後2時に、次の大地震が起こる。 』など。
そこで水島は、2キロほど離れた中央気象台に向かい、情報を得ようとしました。
すると、そこには《 今後、大地震続発の心配は全く無いであろう 》と書かれた「公報」が貼られていました。
しかし、公報を見た被災者達は『 天気予報すら当たらないのだから、、、 』と、中央気象台の情報を「信じません」でした。
午後1時頃になると、東部の多くの地で火災の発生が相次ぎました。
水島は家に辿り着き、道中で「見聞き」した流言を書き留めました。
その中には、
『 大津波が来る(「既に」来ている)。 』
『 ライオンが逃げ出して、人の頭を食いちぎった。 しかも、その現場を多くの人が「見た」と話していた。 』
などもありました。
午後3時頃になると、東部では高台にある上野公園に多くの人が避難して来ました。
そして、多くの被災者が集まった事で、「更なる」多くの流言が生まれ、広がっていきました。
自宅にいた水島の元にも、『 ○時と○時の間に東京が崩壊する。 』との流言も届きました。
しかも、当時の地震学の「権威」だった、東京帝国大学教授の大森房吉が話していたなどの、事実無根の内容まで「付け加え」られ、広まっていました。
しかし、東京が崩壊する《 ○時と○時の間(の時間) 》が、話す人によって「バラバラ」でした。
すると、水島は、
それぞれの話の内容の「矛盾」に着目して・・・
東京の崩壊は「与太話(流言)」である・・・
と「見究め」ました、、、
ちなみに、他の流言では、
『 富士山が大爆発、「今なお」大噴火中。 』
『 火事を延焼させる火鳥が現れた。 』
『 川に落ちた(被災者の)死体を食べる為、サメが隅田川を上って来た。 』
などもありました。
【 江馬(山の手)の被災体験 】
江馬は自宅にいた時に、地震に遭遇しました。
家は持ちこたえたものの、避難しようと外に出ると、市街地に黒煙が上がっている光景が「目に入って」来ました。
そして、あちこちから警報を呼び掛ける鐘の音が「耳に入って」来ました。
更に、人々の喧噪や爆発音までもが、「含まれて」いました。
しかし、市街地の上空は黒煙で覆われている為、江馬には「現場」で何が起きているのかは分かりませんでした。
同じく午後1頃、西部にも市街地から避難して来た人達が「集まり」続けていました。
すると、『 皇居が燃えている。 』『 ビルの倒壊で1万人以上が圧死した。 』などを話す人も多数いました。
翌日の2日目、江馬は東部に住む兄の様子を確かめる為に、家を出ました。
すると、新宿の交番の前に人が群がっており、そこには陸軍省の公報として、
『 本日午後0時半、若しくは、1時頃に激震があると思われるので、屋外にいるように。 』
と掲示されていました。
江馬は家に引き返し、公報で得た情報を「触れ回った」ものの、地震は起きませんでした。
しかし、その後も多くの人が「不安や心配」で家に戻れませんでした、、、
【 恐れから怒りに転化した責任転嫁 】
被災2日目の昼過ぎ、「全く根拠が無い」にも関わらず、
朝鮮人による放火と襲撃
の流言が、東京各地に広がりを見せ始めました。
実は、前日の被災1日目の午後4時、東部の陸軍被服廠(しょう)跡地には、多くの被災者が集まっていました。
すると、炎のつむじ風と言われる「火災旋風」が起こり、この跡地だけで約3万8千人が死亡しました。
ちなみに、火災による死者は震災全体で9万人以上である事から、この跡地だけで約3~4割に該当します。
そして、被災2日目も各地で建物が延焼し続け、「飛び火」で離れた場所でも火災が起こり始めました。
更に、ガス管や化学工場に引火し、爆発も続発しました。
しかし、被災者達には、拡大する延焼や爆発の「原因や理由」を知る由もありませんでした。
何とかして「逃れたい」恐れの心境が、朝鮮人への「責任転嫁」に繋がりました、、、