【 その後の状況 】
青果店は、事情を知った人から土地を借りる事が出来、熊本市で再スタートを切る事が出来ました。
店は従来の7分の1にまで手狭になったものの、元の常連客も来てくれています。
青果店の店主:
『 TSMCが悪いとか、私は全然思っていませんし、ただ、あれ(TSMC)が来た事によって、元々いた地域の方とか、地域のコミュニティーとか、色んなものが失われていくとか、地域の方も喜んでいる方ばかりじゃないみたいなので、そういった話をよく聞くので、どうなのかなというのはあります。 』
農場も代わりの土地が見つかりました。
しかし、長年使われていなかった畑や林なので、農地として「復活させる」為には、長い年月と労力が掛かります。
農場主:
『 (行政は)農業を一生懸命考えているという割には、おそらく一番農業の事を考えていないと思いますね。 凄い勢いで農地が無くなっているんです。』
そして、ラーメン店は菊陽町から撤退しました、、、
では、この番組の紹介は、ここで終了です!
繰り返しですが、「良し悪し」や「善悪」や「是非」などを問い掛けている訳ではありません!
次は、番組『 映像の世紀バタフライエフェクト 』(NHK)から、「9.11 あの日が変えた私の人生」の回を少し眺めます!
2001年9月11日、アメリカ(ニューヨーク)で同時多発テロが起きました。
ワールドトレードセンターが崩壊し、約3、000人が犠牲となりました。
【 誰かの為にという動機 】
24人の日本人犠牲者の内の一人が、105階にある証券会社で勤務していた、当時36歳の白鳥 敦さんです。
白鳥さんの父が晴弘さんです。
テロから3年経って敦さんと確認出来たのは、2つの小さな骨の欠片だけでした。
テロから1年後に晴弘さんは、テロの首謀者とされたアルカイダ指導者のオサマ・ビンラディンに手紙を送りますが、なしのつぶてです。
そして、2003年4月に直接話をする為にアフガニスタンに向かいますが、これも実現しません。
しかし、晴弘さんはその時にアフガニスタンで見た「光景」で心が変わります。
それは、アメリカの攻撃で負傷した数多くの子ども達の姿でした。
これにより、晴弘さんの目的は、子ども達を「支援する」事に変わっていきます。
晴弘さん:
『 小さな子どもが銃を持ってジハード(聖戦)と言っている。 そういう子どもが大きくなったら、うちの息子みたいな犠牲が、また出てくるんじゃないか。 そうならない為には何か出来るのかな。 』
晴弘さんは、子ども達の抱える憎しみと貧困を「断ち切る」事が、敦さんの「供養」になると考えます。
そして、幾度もアフガニスタンを訪問し、物資などを援助し続けます。
その際の資金は、敦さんが残してくれたお金を充当します。
これも、その方が敦さんも「喜ぶ」と考えての事です。
そして、現地の人とコミュニケーションを取る為に手品を覚え、道ばたで披露します。
「言葉」は通じなくとも、楽しい「場を共有」する事が可能だからです、、、