認知の歪みを正し、タガを外さない為には ~13日間のキューバ危機から学ぶ~

【 第12日目 】

しかし、事態は暗転し、この日は「暗黒の土曜日」と呼ばれる事になっていきます。

なぜなら、ケネディにフルシチョフから新たな書簡が届いたものの、その内容がトルコに配備している類似の兵器を撤去する事が「条件」だったからです。

アメリカには、到底「飲む事の出来ない」条件でした。

 

更に、時を同じくして、「新たな情報」がホワイトハウスに入ります。

その情報とは、アメリカの偵察機が撃墜され、搭乗員が死亡したというものでした。

 

撃墜したのはソ連兵だったものの、フルシチョフは「命令」を出していませんでした。

「緊張」に耐えかねた、現場の兵士の「暴走」と言われています。

 

 

すると、「ここぞとばかりに」先制攻撃論を主張していた軍部首脳は、もはや核戦争は避けられないが、「今なら勝てる」と、再度ケネディに強く迫ります。

実は、軍部首脳は既に、ケネディから命令が下りたら、アメリカ空軍がすぐに攻撃出来る臨戦態勢を命じていました。

 

しかし、軍首脳部と「対峙」したのが、国防長官のマクナマラでした!

特に強硬だった軍首脳部の一人が、空軍参謀総長のカーティス・ルメイです。

 

実は、20年前の第二次世界大戦の時、マクナマラはルメイの「部下」でした。

しかし、マクナマラはルメイが押し進めた、日本への「無差別爆撃(無差別殺傷)」に協力した事で、その後は「苦しみの渦中」を彷徨いました。

 

故に、マクナマラはルメイの強硬論を「押し留め」続けます。

それと同時に、ケネディも「反撃以外の道」を最後まで探る為に、「時間稼ぎ」をします。

 

ケネディ:
『 決断は明後日だ。 もし明日、再び攻撃されたら、「報復する」という声明を出そう。 地対空ミサイル基地を壊滅させるのだ。 』

 

同じ頃、ソ連は核のボタンに「手を掛けて」いました、、、

 

 

海上封鎖ライン近くを航行中のソ連の潜水艦は、核魚雷を搭載していました。

潜水艦を発見したアメリカ軍は、「事前の取り決め」通りに浮上を求める合図の、演習用の爆雷を投下します。

 

しかし、潜水艦の艦長には、この爆雷が浮上の合図とは「伝わって」いませんでした。

艦長は戦争が始まったと「思い込み」、核魚雷の担当者を呼び、すぐに発射するよう命じます。

 

しかし、発射する為には、「もう一人の同意」が必要でした。

その一人が、副艦長のワシリー・アルヒーポフです。

 

アルヒーポフは「我を忘れつつある」艦長を宥(なだ)め、アメリカが本気で攻撃したとすれば、既に潜水艦は沈められているはずなので、浮上の合図に違いないと「冷静に分析」した上で、進言します。

それから4時間後、潜水艦は浮上し、核魚雷の発射は「回避」されました、、、

 

 

しかし、時を同じくして、アメリカの統治下にあった沖縄の読谷村のミサイル発射基地で「動き」がありました。

その「事実」は、「後の」2015年3月15日の琉球新報で報じられました。

 

基地で技師をしていたジョン・ボードンは、核弾頭を備えた巡航ミサイル4基に発射命令が下っていたと「証言」します。

しかし、標的情報を見ると、1基はソ連、残り3基は別の国を狙う指示が出ていました。

「不審」に思った発射指揮官が、「真偽を見極める」と話し、発射は回避されましたが、この発射命令は「誤報」と言われています、、、

 

「一触即発状態」の中、この日の夜にケネディは一つの「決断」を下します。

それは、フルシチョフから条件提示された、トルコから類似の兵器の撤去を「受け入れる」のを決めた事です、、、。

ケネディは閣僚にも相談せず、トルコにも告げず、「一人で」決断しました、、、