【 優生学とは 】
法律の第一条には、次の規定がありました。
《 優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する 》
法律のルーツとなったのが、1883年から世界中で流行した「優生学」です!
優生学とは、次の考え方です。
《 優れた人間の遺伝子を残し、劣った人間を淘汰すれば、社会は発展する 》
そして、日本では1934年(昭和9年)に法案が提出されました、、、
【 当時でも既に気づいていた 】
しかし、当時の優生学の学会員(優生学を支持する集まり)からも、懐疑的な声が「既に」上がっていました。
医学博士の内藤八郎:
『 (医師は)治療の目的であれば、人に傷害を与へることが許されている。 断種は、この治療といふことを、全く度外視している。 』
名古屋控訴院長の立石謙輔:
『 現在のままの科学の知識の範囲内で、そんな事をせられては、それこそ大変である。 危険である。 』
そして、戦時の混乱の中、火事場泥棒の如く1940年(昭和51年)に国民優生法が成立しました。
ただ、この時には強制不妊手術の実施は「見送られ」ました、、、
【 再燃する優生学 】
日本は1945年(昭和20年)に終戦します。
すると、戦地からの引き揚げ者とベビーブームで人口が急激に増加し、食糧難(食糧危機)に陥り、飢え死にする人が続出します。
このような背景があり、当時は禁止されていた妊娠中絶の合法化を求める声が高まります。
優生保護法案を提出した政治家は、参議院議員の谷口彌三郎です。
しかし、谷口は妊娠中絶の合法化には反対意見を唱えます。
ただ、その理由が、
『 優れた人間ばかりが中絶を選択すると、劣った人間の割合が増える事で国民の質が下がる。 』
という「逆淘汰」でした、、、
そして、妊娠中絶を解禁すると同時に、障がい者への強制不妊手術を「押し進める声」が高まります。
こうして、1948年(昭和23年)に旧 優生保護法は誰一人反対する事なく、「全会一致」で成立しました。
これは、「法の下の平等」を掲げる日本国憲法が施行された翌年の出来事です、、、
【 強制不妊手術が加速した背景 】
昨年(2023年)の国会が公表した報告書があります。
その報告書には強制不妊手術(以下、手術)の対象が拡大し、加速した背景が示されていました。
手術が増加したのが1950年代で、この頃は犯罪が増加し「社会不安」が広がっていました。
そのような中、先の谷口が国会で答弁します。
谷口:
『 精神病者、特に性格の異常者などで言い換えれば、放火犯とか殺人犯とかいうようなことを行う人間の、殆んど五分の四までは性格異常者である。 』
そして、1952年(昭和27年)に旧 優生保護法の一部が改正されます。
それは、「当初は」遺伝性の障がいに限定していた手術を、「遺伝性以外」の精神障がいや知的障がいに拡大させました、、、
この政策に国からの予算が5年で2倍に増加します。
そして、国は自治体に予算の増額に「見合うだけの手術数」を増やすように指示します。
そして、特に北海道が積極的に取り組み、病院に対し手術数の「ノルマ」を設定し、全国一位となりました。
北海道では、ちょっとした面倒事を起こすと警察が精神病院に連れて行き、医師の診察も無く精神病と診断され手術が行われていました、、、