人生の舵取りに役立つ人脈と人財 ~大黒屋光太夫に学ぶ羅針盤と地図~

【 島から脱出を果たし新たな地へ向かう 】

1785年(天明5年)、ロシア船が島にやって来ました!

しかし、突風が吹き、この船も岩礁に乗り上げ沈没し、更に1年が過ぎていきます。

 

光太夫はロシア人と話し合い、船を作る「提案」をします。

そして、自分達の千石船と伝馬船とロシア船の残骸を活用し、ロシア人と協力した事で僅か3ヶ月で船は完成しました!

 

 

こうして1787年(天明7年)、光太夫達9人は島を脱出し、カムチャツカ半島に到着します。

しかし、当時の日本(江戸幕府)は鎖国政策を採っていたので、ロシアとの国交はありませんでした。

 

一方のロシアは南下を進め、北海道まで来ていました。

ちなみに、この頃の老中だった田沼意次は、北方との貿易を考えていたと言われています。

 

カムチャツカに滞在する事1年、ロシアから帰国許可がおりないどころか、遠く離れたイルクーツクという地へ向かうよう言われます。

実は、光太夫の前にも何人かの日本人がロシアに漂着していたものの、誰一人帰国を果たせていませんでした。

 

なぜなら、約90年前のピョートル大帝の時代、領土拡大を続け支配した地域を維持する為に、補給地が必要でした。

その補給地としてロシアが目を付けたのが、日本でした。

しかし、江戸幕府は鎖国状態であるが故に、ロシアは日本と交渉する通訳の育成の為に、漂流した日本人を日本語教師として働かせていました。

 

 

光太夫達がカムチャツカに到着した頃、以前に漂流した日本人も他界していて、日本語を教える学校は廃校寸前でした。

この頃のロシアにとっては、光太夫達はまさに「渡りに船」でした。

このカムチャツカで3人が亡くなり、残り6人となります。

 

ところで、仕事でも上層部(経営陣)と現場の従業員との「意識の乖離」はよく見受けられる光景です。

そして、人を動かす時には、

 

相手の心を「くすぐる」

 

という表現があります。

くすぐった際に、相手が「笑う」のか「嫌がる」のか、それを見極めるのが上司の役割です。

勿論、中には会社の業務命令とされて、断る事が出来ないケースも多々あるでしょう。

 

そして、ここでの上司とは中間管理職の意味合いが強いですが、更に上の上層部(経営陣)には「忖度」する事なく、

 

部下の従業員に、手間を惜しまず丁寧な理由の説明をする・・・

これが「急がば回れ」!!!

 

という、人を動かす際には最低限の「礼儀」になります!

 

 

【 縁を紡ぎ人脈と人財を大切にする 】

光太夫はカムチャツカで警備司令官と出逢い、帰国の為のアドバイスを授かります。

それは、皇帝エカテリーナ2世に嘆願するというものでした。

そして、警備司令官は嘆願書の草案を作成してくれて、イルクーツクの総督府に提出するよう助言してくれます。

こうして1788年(天明8年)、光太夫は仲間6人と共にイルクーツクへ向かいます!

 

しかし、冬のシベリアは永久凍土が広がり、2ケ月もマイナス40℃が続く道中で、凍傷も続発します。

そこで光太夫は、凍傷にならないよう「寒い時は歩いて」身体を温め、「身体が温まったら馬に乗る」を繰り返します。

こうして、半年掛けて約2、500キロを走破し、イルクーツクに到着しました!

 

 

このイルクーツクは、ロシアの極東進出の拠点の都市です。

そして、光太夫は総督府へ嘆願書を提出したものの、「帰国を諦めて日本語学校の教師になれ」との返事でした。

そして、凍傷を負った仲間の庄蔵が足を切断し、ロシアに生活を頼らざるを得なくなり、その為に庄蔵はロシア正教に改宗した事で、キリスト教を禁止していた日本には帰れなくなってしまいました。

更に1人亡くなり、帰国を望むのは4人となります。

 

すると、光太夫はロシア科学アカデミー会員の博物学者キリル・ラクスマンと出逢います。

ラクスマンは公明な人柄で、宮廷に「顔が利く」人でした。

しかも、ラクスマンの知り合いに長崎のオランダ商館で働いている学者がいたので、植物を含め日本に「強い関心」を持っていました。

そして、ラクスマンは新たな嘆願書の原案を作成してくれて、二人は親しくなっていきます!