【 《 生命編 第21夜 銀河を渡る蝶 》より引用(中略等を含む) 】
安西冬衛に次の一行詩がある。
てふてふが一匹韃靼(だったん)海峡を渡つて行つた
一読して忘れがたい極北の幻想風景である。
ところが現実は詩人の霊感よりさらに奇である。
おそらく彼は、モナーク蝶の話を聞き及んではいなかったのだろう。
カナダからメキシコまでを渡って生きる大型の蝶のことである。
この蝶の生態に関して信じがたいところは、渡りが世代を継いで行なわれることである。
北の大地に生まれたモナーク蝶は、晩夏になると数百羽数千羽の群れをなして南を目指す。
秋風に波立つ五大湖を越え、果てしないプレーリーを越え、メキシコ湾を越え、サボテンの成るサポテカを越えて総計4000㎞を、蝶の生涯のほとんどにあたる一月ほどかけて渡った末、メキシコ西南部ミチョアカンの山里に達して産卵を行なう(高知から東京までの5倍である!)。

そしてこの地で生まれた次の世代が、さなぎになり越冬して、春の訪れとともに今度は涼やかな北の草原を目指す。
なんらかの困難があるのか、この北帰行(ほっきこう)は実に3世代をかけて行なわれる。
アメリカ合衆国で途中2回産卵し、その数を半分に減らしながらカナダの祖先の地に戻るのは、南へ向かった蝶たちの曾孫(ひまご)の世代なのである。
現実の事象の偶発的な時間順序を無視すれば、こう言うこともできるだろう。
安西冬衛が夢幻の中で予感した「海峡を渡る蝶」という観念が、何十万年を遡ってアメリカの地で、一匹の蝶の冒険心を呼び起こし、世代を超えて大陸を渡る蝶という姿に具現化したのだ、と。
そもそも蝶は、近所を飛び回るだけのために、あんな大きな華麗な翅(はね)をもって生まれたのだろうか。

では、先ほど紹介した、私の体験談に戻ります(笑)
ところで、「百聞は一見にしかず」との言葉もあります。
そして、知識としての蝶の生態は多少頭にあるものの、
小さな蛹(サナギ)であるにも関わらず・・・
また、さほどの動きも見せずとも・・・
その内部では蛹の数倍の大きさになる・・・
羽根(翅)を含めた体が創造されている!!!
というのが事実です!
そして、改めて蝶の生態を含め、
私は「観察」を通し・・・
色々な事を肌で「知り」・・・
「知る」につれて「気づく」事も増え・・・
蝶が巣立つ時には「愛着」が湧いていたと共に・・・
一抹の「淋しさ」も同時に感じた・・・
というのが偽らざる心情です(笑)

そして、私に蛹をくれた知人は、卵の時から保護し、幼虫へ与える餌(パセリなど)も自分で育てるなど、かなりの手を掛けて世話をしています!
しかし、どんなに手を掛けても、中には一部の羽根(翅)が育たず、飛べない蝶として生まれるケースや、同じくどんなに手を尽くしても、成長途中で死ぬ幼虫や蛹もいると、教えてくれました。
そして、今回の蝶を一つの例えに挙げても、
蝶として自然界で生き残れるのは・・・
ほんの一握りであり・・・
私達「人間」の目に見え、触れ合える蝶は・・・
更に、その内のごくごく一部でしかない・・・
というのが事実です、、、
そして、全卓樹 氏は自由に飛び回り、住む世界を拡大していく為の、蝶の羽根(翅)の存在(意義)を「人間」に擬(なぞら)えて、つまり「比較」をして、次の言葉も同時に書き記しています、、、
『 我々は何処から来たのか。 我々は誰であるのか。 我々は何処に向かうのか。 』

では、締め括りです!
最初に、
「気づく」とは「感動する」事と同じであり・・・
「感動する」とは「心が動く(動いている)」事であり・・・
故に、「心が動く(動いている)」状態の時は「気づき」が更に増し・・・
逆に、「心が動かない(動いていない)」状態の時は「気づき」から遠ざかる・・・
というのが事実であり真実です。
そして、もし、心が(全く)動いていないと感じる時は、
感謝の心が不足していないか???
と、自分に「問い掛けて」下さい、、、
そして、感謝の心が不足していると思い当たる時は、
傲慢な姿勢に陥っていないか???
と、自分の「振り返り」をして下さい、、、

そして、私の妄想が囁くのが、
もしかしたら、「人間」以外の「(全)生命」同士では・・・
『 「人間」って傲慢も含め、どうしようもないねぇ~ 』
との、話をしているそうです(笑)
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