「見方」を変えれば「味方」になる ~「妬み・嫉み・僻み」から~

【 歴史は繋がる 】

更に、同じく《 小右記 》には、喜界島から都(みやこ)に送られた特産品の記述もあります。

例えば、掛け軸や刀剣の鞘(さや)に使われた赤木、また、貴族の牛車(ぎっしゃ)に使われたビロウの葉など。

そして、

 

特に希少価値が高いのが・・・

サンゴ礁に生息する夜光貝(やこうがい)!!!

 

です!

 

 

例えば、夜光貝の殻の内側には真珠層があり、スプーンのように加工された匙(さじ)が、貴族の間で大人気の贈り物になりました。

更に、

 

真珠層を工芸品にはめ込んで装飾する・・・

螺鈿(らでん)細工の材料!!!

 

として重宝されました!

故に、岩手県平泉に建立された中尊寺の金色堂にも、

 

600個以上の夜光貝と・・・

3万以上の螺鈿の欠片(かけら)が使われた!!!

 

という事からも明らかです!

 

そして、夜光貝は、

 

日宋貿易でも献上品として用いられたと同時に・・・

現在も喜界島の名産品の一つ・・・

 

です。

このように、数々の名産品を生み出していた事も、

 

「貴海島」と呼ばれた由来の一つ!!!

 

です!

 

 

【 イメージを一変させた伝説 】

太宰府が廃止された12世紀以降、城久遺跡の規模が急速に縮小しました。

そして、喜界島は周辺の島々と一緒くたの扱いをされるようになりました。

その証として、《 源平盛衰記 》には極(きわ)め付けとも呼べる、次の記述があります。

 

『 きかひは十二の島なれや 昔は鬼の住みければ 鬼界の嶋とも名付けたり 』

 

そして、

 

記述のキッカケになったのが源平伝説であり・・・

伝説が島のイメージを一変させ・・・

「鬼界島」と呼ばれるようになる・・・

 

という流れになりました。

 

 

【 伝説① 】

喜界島は湧き水も豊富であるが故に、多くの泉が作られました。

その内の一つに、「雁股(かりまた)」の泉があります。

この雁股とは、先端が二股に分かれた殺傷能力の高い矢を意味します。

 

そして、源頼朝(よりとも)の叔父で、無双の弓矢の達人と称されたのが、源為朝(ためとも)です。

しかし、為朝は1156年の保元の乱で敗退し、伊豆大島に島流しにされました。

 

ところが、伝説によると為朝は伊豆大島を脱出し、琉球に逃れる道中で喜界島を見つけ、立ち寄ったと言われます。

そこで、為朝は島に上陸する前の調査の意味で、島に向かって矢を放ちました。

そして、上陸後に刺さった矢を抜いた所、その場所から清水が湧いた事から、雁股の泉という名前の由来となりました。

そして、為朝はその後も数ヶ月滞在し、源氏の守護神の八幡神社を建立した後に、琉球に渡ったと伝わります。

 

 

【 伝説② 】

一方、同じ喜界島でありながら、源氏に敗れた平家の伝説もあります。

島の北部には、沖名泊(おきなどまり)という場所があります。

この場所は壇ノ浦の戦いの後、平清盛(きよもり)の孫である平資盛(すけもり)を筆頭に、平家の残党約200人が落ち延びたと言われます。

 

そして、資盛は島内に要塞を築いたと言われ、その要塞の跡地は平家森と呼ばれています。

そして、3年ほど滞在した後、家来の一部を残して資盛は奄美大島に渡ったと伝わります。

 

 

【 伝説③ 】

この頃の喜界島も、本土の中央政治と密接な関係を保っていた事が窺える史跡もあります。

その一つとして、喜界島には僧の俊寛(しゅんかん)の銅像が建立されています。

実は、俊寛は平清盛を倒す画策をしたが故に、喜界島に島流しにされた伝説があります。

また、《 平家物語 》にも平清盛が権勢を振るっていた1177年に関し、以下の記述があります。

 

『 (京都の)鹿ヶ谷 平家亡すべき謀りをぞ めぐらしける 三人をば薩摩方 鬼界が島へぞ流されける 』

 

更に、当時の喜界島の様子に関しても、以下の記述があります。

 

『 おぼろけにては舟もかよはず 人はあれども 人にも似ず 男は烏帽子もせず 女は髪もさげざりけり 』

 

つまり、平たく表現すると、

 

喜界島は「異世界」である

 

という意味です。

 

 

話を俊寛に戻すと、島流しの翌年、清盛の使者が恩赦を告げに来たものの、俊寛だけは赦免されませんでした。

そして、俊寛は自分も連れて行けと泣き喚いたものの、願いは叶いませんでした。

そして、失意の淵を彷徨いつつ、37歳の時に喜界島で生涯を閉じたと言われます。

 

しかし、俊寛の伝説は薩摩半島の南の硫黄島、九州の佐賀や出水や伊王島の各地にも残されており、それぞれの地には俊寛の墓も残されています。

すると、昭和49年、喜界島に残る俊寛の墓から人骨が見つかりました。

この人骨が俊寛か否かは未だに不明なものの、都の公家のような家柄の良い人物の特徴が見られました。

他にも、棺の金具の装飾などから埋葬された人物は、島外から到来した身分の高い人物の可能性が高いと推察されています。

 

そして、俊寛の伝説から、

 

この時代の喜界島は・・・

本土の人にとっては流刑地であり・・・

絶対に足を踏み入れたくない・・・

最果ての地・・・

 

と、見做されていました。

 

 

【 イメージが現実を創造した 】

少し時代が進み、鎌倉時代に描かれた日本の絵図があります。

ただ、その中では本土や九州などは描かれているものの、琉球や奄美大島は然り、喜界島も描かれませんでした。

それどころか、

 

喜界島は国の統治が及ばない・・・

「身人頭鳥」という・・・

体が人で頭が鳥の者が住む地・・・

 

と、見做されていました。

 

こうして、

 

同じく「名は体を表す」の如く・・・

「鬼界島」という恐ろしいイメージが定着した・・・

 

という事です。

その証として、この時代の出土品は極端に少ないという実態があります。

つまり、

 

人々の営みが極端に減少した

 

という事を意味します。

 

 

【 断ち切られなかった歴史 】

このように、負のイメージのレッテルを貼られた喜界島とは言え、島全体が衰退の一途を辿った訳ではありません。

その証として、14~15世紀の川寺遺跡では、ネコの骨が発見されました。

例えば、東北でネコが飼われるようになったのは、江戸時代の中期以降です。

更に、中世ではネコは重宝され、鎖で繋がれ大切に飼われた一方、逆にイヌは放し飼いでした。

 

他にも、馬や牛の骨も出土し、田畑を耕す際の鋤(くわ)や鍬(すき)を引かせる為に飼われていたと考えられています。

そして、動物を活用する農耕は、

 

当時の西日本で普及していた最新技術!!!

 

でした!

また、岩から貝を採取する為の道具であるケージャーの鉄器も出土し、現在の道具とほぼ変わらない形状と機能を兼ね備えていました。

そして、喜界島はサンゴ礁の島であるが故に、砂鉄が採取出来ないにも関わらず、鉄器が日常的に生産可能だった事から、

 

この頃も本土と繋がりが保たれていた

 

と、推察されています。

 

 

その証の一つとして、鹿児島県の北西部の長島町に資料が残っています。

そして、その資料が1306年に書かれた《 千竈時家譲状 》です。

この千竈(ちかま)氏は尾張を本拠としつつも、薩摩の代官も勤める有力な御家人でした。

そして、資料の中の記述に、

 

『 きかいかしま 』

 

という箇所が発見され、これが本土との繋がりの有力な証とされています。