生き金と死に金を分けるものとは ~真の動機で変わる人の縁~

【 何かに目覚めた!?治郎八 】

1923年に関東大震災が起こり、治郎八の実家も大きな被害を受けました。

父から帰国を促されるものの、のらりくらりと返事をしつつ、あと1年という約束でパリで暮らし続けました。

 

そして、1924年に帰国し、公爵家の令嬢と結婚します。

しかし、三代目として家業を継ぐ素振りも一切見せません(笑)

 

 

すると、ある日、外務省の役人が治郎八を訪ねて来ました。

この役人が、後に総理大臣となる広田弘毅でした!

 

広田は、パリ郊外に建設予定の日本人留学生の為の宿泊施設、「パリ日本館」への出資を治郎八に依頼しました。

そこで、治郎八は再びパリに赴き、フランスの文部大臣を務め、パリ日本館の発案者であるアンドレ・オノラと話します。

そして、オノラは、

 

《 世界の学生達が交流出来る場所を作り、世界平和の礎にしたい! 》

 

と、自らの思いの丈を治郎八に語りました。

すると、治郎八は、

 

現在の価値で42億円もの金額を全額負担する!!!

 

との決断(返事)をしました!

 

 

しかし、パリ日本館の運営に関しては、金は出すけど「口は出さない」事も宣言しました。

こうして、1927年にパリ日本館が完成しました。

 

【 混乱の最中(さなか)でも活動に勤しむ 】

しかし、1929年に起こった世界大恐慌の影響を受け、1935年に実家の薩摩商店は閉店を余儀なくされました。

更に、1939年にフランスがドイツに宣戦布告し、戦争が始まりました。

 

そして、治郎八は戦地となったフランスに再び赴きました。

しかし、戦争の余波でパリ日本館は既に閉鎖されていました。

 

そこで治郎八は、ドイツに拘束され窮地に陥ったフランス人を救出するボランティア活動に勤しみます。

そして、自らでドイツ将校と直接交渉し、救出を成し遂げました。

更に、ドイツが撤退すると、今度はフランスに拘束された日本人の解放を求め、私財を投げ打ち奔走しました。

 

 

【 しなやかに変化した治郎八 】

1951年、治郎八は12年ぶりに帰国するものの、この時は既に無一文になっていました。

そこで、パリでの体験などを元にして、随筆家としての活動を始めます。

そして、この時に得た原稿料が、

 

人生で自ら初めて稼いだお金

 

でした(笑)

 

そして、浅草に安アパートを借りて暮らす中、ストリップ劇場の楽屋を訪れ、踊り子と雑談するのが日課になりました。

すると、20代半ばの踊り子と恋に落ち、1956年に結婚して妻のアパートに転がり込み、同居生活を始めました。

ちなみに、この時には、既に前の奥さんは他界しています。

 

 

そして、妻は踊り子を辞め、洋裁仕事(内職)をしながら治郎八の生活(収入)を支えました。

そして、当時を知るのが、歌手で俳優の美輪明宏さんです、、、

 

美輪さん:
『 治郎八さんは、人間の真価や物の価値を、お金に換算するような賤(いや)しい真似は、決してなさいませんでした。 超一流のレストランの味を知っていながら、場末の食堂の安い定食でも、美味しい美味しいと召し上がっておいででした。 狭苦しいアパートでも、センス良く暮らしていた。 こういう暮らしも、なかなか面白いと笑っていました。 治郎八さんこそ、本当の意味で豊かさを知る、粋でオシャレで優しい紳士でした。 そして、その本領は無一文になってから発揮されたのです。 』

 

では、番組の紹介は終了です!

 

そして、ここ迄の内容(話)を、

 

美談として受け取らない!!!

 

ようにして下さい(笑)

 

 

では、引き続き漫画本『 美味しんぼ 』(作:雁屋 哲、画:花咲アキラ、小学館)から、第3巻に掲載の「 接待の妙 」をメタファー(物語や比喩・暗喩)として少し眺めます!