【 アウシュヴィッツでの選別を免れる 】
第二次世界大戦が始まると、ナチスは占領したヨーロッパ各地に強制収容所を建設していきます。
1942年9月、フランクルは両親と妻と共に、チェコにあるテレージエンシュタット収容所に送られ、強制労働を課されます。
更に2年後の1944年10月、今度は妻と共にポーランドのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に移送されます。
そこは、到着すると多くの人が、即座にガス室送りにされた絶滅収容所です、、、
到着した人々は最初に男女に分けられ、その後、更に二つのグールプに選別されました。
健康で体格の良い人は強制労働を課され、それが無理な人はガス室に送られます。
その選別をしていた医師は、フランクルをガス室送りの方向に指示します。
しかし、フランクルは「自分でも分からぬまま」に、強制労働の指示の方向に歩き出します。
指示に反した行動で、見つかると即座に処刑されるにも関わらず、、、
しかし、ドイツ兵達はフランクルの行動に、誰も気づきませんでした。
フランクルは最初の選別を免れ、生き延びます!
【 もたらされるメッセージ 】
強制労働を課される事になったフランクルに、ガス室で殺された囚人が着ていた、ボロボロの古着が渡されます。
すると、そのポケットの中に、祈祷書から破り取られたページが1枚入っていました。
そこにはユダヤ教主祈祷が書かれていて、内容を平たく表現すると「最善を尽くしなさい」という一節でした、、、
そして、フランクルはロゴセラピーを「自らの実践」を持って、示す事を決意します!
アウシュヴィッツでは、その1枚の紙をお守りのように、古着に大切に隠し持ち続けました。
しかし、後に解放された途端、その紙は消失していました、、、
【 何が命運を分けたのか 】
アウシュヴィッツではガス室送りを免れたフランクルですが、今度は南ドイツのカウフェリング収容所に移送されます。
ここでもフランクルは強制労働を課されますが、収容所で発疹チフスが蔓延します。
すると、フランクルは医師として患者に付き添う事になり、患者の隔離施設にトラックで移動するよう命じられます。
しかし、出発直前になって、「別の人」が付き添う事に変更されました、、、
強制労働から解放されると思ったフランクルは「落胆」しました。
しかし、トラックに乗せられた全ての人が、ナチスにより焼却処分にされました。
フランクルは、またしても生き延びます!
【 病が命を救う 】
1945年3月、連合国軍はヨーロッパ各地に進軍し、強制収容所を次々に解放していきます!
この時、別の収容にいたフランクルも「解放目前」でした。
しかし、この時のフランクルは発疹チフスに罹患し、命の危機に瀕していました、、、
4月上旬、ナチスは証拠隠滅を図り、収容していた人々を移送させます。
140キロの道のりを2週間、飲まず食わずで歩かせ、死者が続出しました。
フランクルは病により収容所に残された事で、再び生き延びます!
ようやく解放された後に、フランクルは収容所で妻と母が亡くなった事を知ります。
また、最初に収容所に送られた時には、ロゴセラピーの原稿も没収されるなど、フランクルは、
収容から解放後に渡るまで、絶望の淵を彷徨っていた
と言えるでしょう、、、