【 青ヶ島のモーゼが立ち上がる 】
そして、青ヶ島の新たな代表になったのが、「青ヶ島のモーゼ」と呼ばれた佐々木次郎太夫でした!
1817年(文化14年)、50歳の次郎太夫は名主になり、八丈島のお上(役所)に願い出ます。
『 お上に負担を掛けないよう、期限を定めて青ヶ島の復興をさせて頂きたい。 』
次郎太夫は次の試みで失敗したら、帰郷を断念する覚悟を決めていました。
そして、帰郷と島の復興計画を練りに練って立案します。
一つに、八丈島にいる島民177人の中から屈強な27人の男性を選び、7人には船の操縦の訓練をさせる案です。
一つに、残り20人には島に帰郷後、家と食料貯蔵庫を建造させ、農作物の栽培を再開させる案です。
そして、進展具合を見ながら、2年目から順次、島民を帰郷させる計画でした、、、
【 立ちはだかる壁と分断 】
しかし、目の前に立ちはだかったのが「予算」でした。
これまでも、帰郷を試みる度に幕府に資金援助を求めていましたが、八丈島も飢饉の状態で帰郷に予算を割く余裕が無かったからです。
更に、青ヶ島の島民同士でも帰郷するのか残るのかという「分断(対立)」が生まれます。
なぜなら、この頃には当初避難して来た島民の多くが亡くなり、八丈島で生まれた島民が多くなっていたからです。
そして、この頃の次郎太夫は次の言葉を残しています、、、
『 このまま復興が遅れてしまっては、青ヶ島を知る者も老衰し、自然と志も挫折し、むなしく月日を送る事になってしまう。 』
そこで、次郎太夫は島民が守る掟(おきて)を定めます!
その掟の中で、何度も繰り返し出て来るのが、
睦(むつ)まじくあれ
でした、、、
そして、島民「一人一人と話し合いの場」を持ち、倹約しながら船の建造資金を捻出し、帰郷を目指します!
【 真の帰郷と復興とは 】
そして、当初の案通りに27人が先遣隊として出航し、無事に青ヶ島に帰郷しました!
そして、その後は1年ごとに島民を帰郷させますが、その間、一度も遭難や沈没はありませんでした!
しかし、島の復興は帰郷した後が「本番」です。
島内には野ネズミが大量発生し、土地も荒れ果てた状態です。
しかし、地道に復興作業に取り組んだ結果、1835年(天保6年)に青ヶ島で「検知」が行われる事になりました。
つまり、年貢を納める事が出来るまでに復興した!!!という事です(笑)
全島民避難から50年後の事でした、、、
では、番組の紹介は終了です!