七転び八起きで歩き続ける実践 ~煽られない為には知り・考え・気づく事~

 

【 青ヶ島とは 】

東京から約290キロ離れた伊豆諸島の八丈島は、江戸時代には流刑の島でした。

八丈島に島流しにされた近藤富蔵が記した『 八丈実記 』の記録から、当時の実状が続々と判明し、八丈島には罪人だけが住んでいた訳では無い事が分かって来ました、、、

 

八丈島から更に約70キロ離れた所に青ヶ島(東京都)はあります。

現在も人が生活していますが、天候次第で上陸出来ない事が多く、秘境と言われています!

周囲は断崖絶壁の外輪山に囲まれているので、海風(潮風)を防いでくれ作物が豊かに育ちます。

 

そして、現在も至る所で火山の水蒸気(無毒)が噴出しています。

そして、青ヶ島は周囲約9キロの巨大な海底火山の頂上部に該当し、以前は火口だった所に人が住んでいる状況でした、、、

 

 

【 相次ぐ予兆 】

244年前の1780年(安永9年)6月、6日間に渡り昼夜を問わず地震が続き、無数の火口が出来始め、大量の湯水が湧き上がりました。

これが最初の異変です、、、

 

それから3年後、今度は島の中央部に火口が出来始め、大量の焼け石が噴出しました。

島内では火災が発生し、死者も出てしまいました、、、

 

更に2年後の1785年(天明5年)3月10日、これまでと比べものにならない大噴火が起こりました。

島全体に大量の火山灰が降り注ぎ、203名の全島民が八丈島に避難せざるを得なくなりました、、、

 

【 失敗に失敗を重ねる帰郷の試み 】

当時、八丈島が「本島」で、青ヶ島は「属島」という扱いでした。

しかも、八丈島でも飢饉に見舞われていました、、、

 

噴火から4年後の1789年(寛政元年)、青ヶ島の代表である名主の三九郎は避難して来た島民に告げます。

 

『 青ヶ島が以前のように年貢を納められるよう、復興に精を出す事が肝要だ。 』

 

そして、噴火が治まったので、青ヶ島へ戻ろうと呼び掛けます!

 

しかし、青ヶ島周辺は風も強く危険水域なので、何度試みても失敗し、行方不明者や溺死者が続出し、船も失い続けていきます。

そこで、三九郎は自ら青ヶ島へ渡る決意をします!

 

 

1797年(寛政9年)、三九郎は家族と共に、家財道具一式を積んで出航します。

しかし、海が荒れ、紀州の地に船が流されてしまい、14人の内の11人が亡くなり、三九郎も亡くなりました。

 

こうして、八丈島に残っていた島民も「諦めムード」になっていきます。

そして、噴火から30年以上の時が過ぎ、「未だに」帰郷を果たせない状況が続きます、、、