幸せと倖せを創造するお裾分け ~もう一つの顔を持つ渋沢栄一から~

【 引退後も続けた社会福祉活動 】

更に、社会福祉「事業」を困窮者のみならず、災害に遭った人や病気で苦しんでいる人へと対象を広げていきました。

そして、病院や学術研究施設などの設立や運営にも協力し、当時では珍しかった保育所の構想も練っていきます。

つまり、困窮者のみならず、「一般の人々の生活」の一端も福祉で担い協力する姿勢を打ち出しました!

 

その後の1909年(明治42年)、渋沢は銀行を除く経済界から70歳で引退しました。

しかし、社会福祉「活動」は終生続けていきます、、、

 

ところで、ここでは敢えて「事業」と「活動」を区別しました(笑)

 

「生きる」とは事業でしょうか???

「生きる」とは活動でしょうか???

両方を含むのが「生きる」でしょうか???

 

 

【 救護法を実現させた真の動機 】

1929年(昭和4年)に「世界大恐慌」が起こります。

日本でも失業者が増大し、東北地方では飢饉に見舞われます。

 

そして、国会で困窮者の救護を国や自治体に初めて義務化する「救護法」が制定されます。

これが、後の「生活保護法」に繋がっていきます、、、

 

しかし、政府は法律が制定されても「予算が無い」と実施を見送っていました。

福祉活動家達は渋沢に窮状を訴え、救護法の実施を頼み込みます。

この時の渋沢は91歳で病気療養中でしたが、

 

『 私はもうどうれだけ生きられるか分からない。 私の命を皆に与えていくのは本望だ。 』

 

と話し、大蔵大臣に面会を申し入れ、お願いします、、、

 

『 私達が一生懸命に働いて来て、日本の経済をこのようにしたのは、この時にこそ皆さんに役立てて頂きたいからでありました。 渋沢の最後のお願いです。 救護法を実施して下さい。 』

 

 

2年後の1932(昭和7年)に救護法が実施され、24万人もの人々が救われました。

ただ、渋沢は実現を見届ける事なく、1931年(昭和6年)に92歳で他界しました。

そして、渋沢が84歳の時に講演会で語ったのが、次の言葉です、、、

 

『 世の中がだんだん進歩するに従って、社会の事物も益々発展する。 ただし、それに伴って肝要なる道徳仁義というものが、共に進歩していくかと言うと、残念ながら「否」と答えざるを得ない。 仁義道徳と生産殖利とは、元来、共に進むべきものであります。 』

 

では、番組は終了し、シンプルに締め括ります!