第576回:『 「捨てる神あれば拾う神あり」の真意 ~北里柴三郎の足跡に学ぶ~ 』
【 その他参照ワード:破傷風菌、血清療法 】
S.Light.M(カウンセリング・ヒプノセラピー・レイキヒーリング・各種セミナー&認定講座)の瀬川です!
「捨てる神あれば拾う神あり」との言葉があります!
勿論、神が存在するとしても、捨てる事はしません(笑)
ただ、
捨てられたくない!!!
という思いは、ほぼ皆に当てはまるでしょう、、、
しかし、仮に捨てられる経験をした際には、
支えや寄り添いという・・・
拾ってくれた事への感謝!!!
という思いも、これもほぼ皆に湧き上がるでしょう、、、
そして、
捨てるのも人であれば・・・
拾うのも人である・・・
という事です、、、

では、番組『 先人たちの底力 知恵泉 』(Eテレ)から「 北里柴三郎 ~日本近代医学の父~ 」の回を少し眺めます!
【 志(こころざし)を忘れない 】
ペリーが来航した1853年、北里柴三郎(1853~1931年)は熊本県阿蘇郡の地に、9人兄弟の長男として生まれました。
そして、幼い頃にコレラで弟2人と妹を立て続けに「失い」ました。
18歳になった1871年、親の勧めもあり古城医学校(現:熊本大学医学部)に入学しました。
そして、当時は珍しかった顕微鏡と出逢い、目に見えない微生物の世界を「知る」事になりました。
更に、オランダから医学を教えに来ていた医師のマンスフェルトと出逢い、政治や軍事の力で無くとも、医学の力で国民や国を守れる事に「気づかされ」ました。
その後、東京医学校(現:東京大学医学部)で医学の基礎を学びました。
そして、内務省衛生局に入省し、1886年に西洋医学を学ぶ為に、国費でドイツへ留学する運びになりました。

【 背中を見せる 】
ドイツでは、ベルリン大学衛生研究所で学ぶ事になりました。
そして、研究所を「率いて」いたのが、医師で細菌学の世界的権威であるロベルト・コッホでした。
すると、コッホからコレラ菌を研究するように言われました。
具体的には、コレラ菌が増減する環境要因を調べる研究でしたが、北里は27種類の薬品を用いつつ、薬品の濃度や保管場所の湿度を変えたりなど、1時間毎にコレラ菌の増減を記録しました。
何と、その組み合わせは「3000通り以上」でした!!!
コッホの弟子である仲間達も、研究に没頭する北里の「背中」を見て高い評価を付け、それと同時にコッホも実力を認め、北里は細菌学の研究を深めて行く事になりました。

【 机上の空論を打破 】
しかし、3年間の留学期限の終了が目前に迫っていました!
そこで、北里は内務省に留学延長願いの手紙を送ります。
その手紙の中で、北里は延長の「理由」を書き記します、、、
北里の手紙:
『 留学生は先進国の専門知識を学ぶだけで満足し、信用される研究を成し遂げた者は誰もいない。 』
なぜなら、当時の留学生の多くは、海外の研究の「上っ面をなぞるだけ」だったにも関わらず、日本に戻ると「大先生」と呼ばれていたからです。
つまり、自らの「血肉」となっていませんでした。
そして、コッホの「後押し」もあり、更に2年間の留学延長が許可され、基礎から専門に進んだ研究の取り組みが可能になりました。

【 業績の裏にある試行錯誤 】
北里は世界でまだ誰も解明していなかった、破傷風菌の研究に取り組みました。
しかし、菌を詳しく調べる為には、菌だけを純粋に取り出す必要がありました。
そこで、菌の純粋培養に挑みました!
しかし、「何度試みても」他の菌が混ざってしまい、研究は困難を極めました。
すると、破傷風菌だけが純粋に存在する為には、酸素が無い環境が良いという「特徴」に北里は気づきました。
そして、自らの仮説を証明する為に、酸素を追い出し、水素で充満させる為の亀の子シャーレを「試行錯誤の末」に考案しました。
こうして、
世界で初めて、破傷風菌の純粋培養に成功!!!
しました!
すると、ヨーロッパでも北里の「名前」が、広がりを見せ始めました!

【 飽くなき探究心 】
その後、延長された留学期限の終了が1年を切っていたにも関わらず、「今度」は破傷風の治療法の研究に取り組み始めました!
そして、破傷風菌の毒素に打ち克ったウサギの血液を調べた所、血液の上澄み液に抗体が含まれている事を「発見」しました。
これが、同じく世界で初めての、
血清療法!!!
になりました!
そして、世界の権威と称される研究者達と「肩を並べる」にまで至りました!
ちなみに、北里は第1回ノーベル賞の候補にも挙がり、同じく世界で初めて、黒死病(ペスト)の病原体であるペスト菌を特定しました。
