【 原爆投下の決断を下したトルーマン 】
アメリカのミズーリ州にあるインディペンデンス(町の名)には、第33代アメリカ大統領ハリー・トルーマンの名を冠した通りがあります。
そして、トルーマンは人類史上初の原爆投下の決断を下した人物です。
そして、生涯に渡り、原爆投下を「正当化」し続けたと言われます、、、
トルーマン:
『 先ほど、アメリカの航空機が1発の爆弾を広島に投下し、敵の重要な拠点を破壊した。 それは、原子爆弾である。 戦争を早く終わらせ、多くのアメリカの若者の命を救う為、原爆を投下した。 私達は日本が戦争を遂行する能力を完全に破壊するまで、この兵器を使用し続けるだろう。 日本の降伏だけが、私達を止める事が出来る。 』

【 ロスアラモスで気づいたフィリス 】
原爆投下直後のアメリカ国内は、これで戦争が終わるだろうと、歓喜と熱狂の渦を帯びていました。
また、原爆による被害と被爆の実態はアメリカ軍だけの秘匿とされ、アメリカ国民にも知らされませんでした。
しかし、この状況に「強い違和感」を抱き、心の内を両親への手紙に綴った女性がフィリス・フィッシャーでした。
実は、フィリスの夫はロスアラモスで原爆開発に参加した物理学者であり、フィリスもロスアラモスへ移住し生活していた事から、薄々とは言え、原爆の破壊力と危険性に気づいていました、、、
フィリス:
『 信じられない。 「 10万人以上の日本人どもを、たった1発で殺した 」って、アナウンサーが自慢げに喋っていました。 その数字を、スポーツの試合のスコアみたいに読み上げていたのです。 それは人間の数なのに! 私が身震いしていると、アナウンサーたちは爆心地半径1マイルは何もかも蒸発したと、はやし立てていたんです。 私の頭の中のどこかで、「 こんなの現実じゃない。 」という、かすかな声がずっと鳴り響いていました。 』
更に、3日後には長崎へ原爆が投下されました、、、
フィリス:
『 一体、何て事なの。 昨日の長崎爆撃には衝撃を受けました。 どうして2発目を落とさなくてはならないのか、分からない。 2発の原爆を小さな無人島にでも落として、威力を見せつけるだけに出来なかったのでしょうか? 』

【 トルーマンの心境に変化!? 】
長崎への原爆投下直後も、更なる日本への「猛攻撃」を求める声がトルーマンの元に届きました。
その急先鋒が、対日強硬派の上院議員リチャード・ラッセルでした。
そこで、トルーマンは同9日に、すぐにラッセルへの返信を綴りました。
そこには、『 日本はひどく残虐で野蛮な国だ 』と断りを入れつつも、、、
トルーマン:
『 日本の愚かな指導者たちのせいだとは言え、多くの市民を全滅させなければならなかったのか。 個人的には、後悔している。 そして、これは特にあなただけに伝えるが、今後「 絶対に必要 」という状況でない限り、私は原子爆弾を使用するつもりはない。 私の目的は、出来る限り多くのアメリカ人の命を救う事だ。 しかし同時に、私は日本の女性や子どもに対して、倫理的な感情も持ち合わせている。 』
そして、翌10日『 これ以上、原爆を落としてはならない。 』と正式命令を下しました。

【 心身に異常を来すフィリス 】
原爆の被害と被爆の実態はアメリカ軍だけの秘匿にされたとは言え、調査団は広島と長崎の記録映像を持ち帰り、その一部はロスアラモスにも送られました。
すると、11月にフィリスは記録映像を「目の当たり」にし、直後から頭痛と吐き気が止まず、体調を崩し快復しない日々が続きました。
それに関し、フィリスの孫のレイチェル・ロビンズは話します、、、
ロビンズ:
『 ロスアラモスでは、両極化した感情が渦巻いていたと思います。 祖母は日本人の命をあまりにも軽んじていると感じたのです。 彼女は本当に異常な時代に生きていて、恐怖を抱えながらも、人間性を保とうと毎日を耐え忍んでいたのだと思います。 』

【 イタチごっこの始まり 】
1948年、トルーマンは軍の首脳部から『 原爆は軍の管理下に置くべき 』との要求を突き付けられました。
トルーマン:
『 これほどまでの破壊力を持つ兵器の使用を命じる事は、恐るべき事だ。 これは通常の兵器ではない事を理解して欲しい。 女性や子ども、武器を持たない人々を皆殺しにするものであり、ライフルや大砲などと扱いを分けなければならない。 』
こうして、トルーマンは原爆を軍の管理下に置く事を拒否し、専門の委員会に委ねつつ、使用権限は自らに留めました。
しかし、翌1949年、ソ連が原爆開発に成功しました。
すると、アメリカでは更に威力の高い水爆の開発に取り組むべきとの声が上がりました。
しかし、原爆開発者であるオッペンハイマーですら、水爆の開発には反対しました。
一方、トルーマンは水爆の開発を支持し、決断しました。
1952年、アメリカは広島に投下された原爆の700倍の威力を持つ、水爆実験に成功しました。
しかし、翌1953年、ソ連も水爆実験に成功しました、、、

【 揺れ動くトルーマン 】
朝鮮戦争(1950~1953年)ではアメリカの戦況が思わしくなかった事から、マッカーサーから原爆投下の進言があったものの、トルーマンは却下しました。
更に、原爆投下を求める多くの声が届く中、トルーマンは「公に」反論しました、、、
トルーマン:
『 私達はそのような考えはしない。 私達は道徳的な人間なのだ。 正義と自由を備えた平和が私達の目標である。 核戦争を始める事は、理性的な人間にとって全く考えられない事なのだ。 』
しかし、これに「噛みついた」のが原子力委員会のトーマス・マレーでした。
そして、マレーはトルーマンに手紙を綴りました、、、
マレー:
『 あなたのご発言は核戦争の道徳性について、人々を混乱させる恐れがあります。 我々は1945年に核戦争を開始しました。 当時も、そして現在に至るまで、核戦争は不道徳な行為では無いと信じています。 』
すると、トルーマンは大統領退任の前日、マレーに返信を綴りました、、、
トルーマン:
『 核兵器の使用に対する私の考え方について、あなたは間違った解釈をしている。 核兵器は市民を大量虐殺するという点で、毒ガスや生物兵器よりも、はるかに悪だ。 いつか機会があれば、この件について、あなたとじっくり話し合えればと願う。 』
そして、トルーマンの孫のクリフトン・トルーマン・ダニエルは、幼少期の頃にトルーマンから『 アメリカ人と日本人の命を救う為に、戦争を終わらせるのが目的だった。 』と、原爆投下の正当性を繰り返し聞かされていました。
そのダニエルは、大人になってから広島と長崎を訪れ、被爆者と話し合いをするなど、現在は二度と核兵器を使わせない「行動」を起こしています。

【 晩年のフィリスの想い 】
その後のフィリスは原爆の話題に関し、夫と共に口を噤みました。
しかし、1985年に著作《 ロスアラモスでの体験 》を出版しました。
そして、著作として自らの体験を書き記し、伝える事になった「キッカケ」が、フィリスが広島の平和公園を訪れた時の事でした。
フィリスは、平和公園で出逢った一人の女性の姿に「心を打たれ」ました。
そこで、著作の中で彼女へ向けた手紙の形式を取り、「自らの想い」を綴りました、、、
フィリス:
『 ヒロシマのおばあ様へ あなたに出逢ったのは1979年11月の、ある寒い日の事でした。 あなたは誰の目も気にせずに、原爆死没者慰霊碑に歩み寄って、そこで静かに立ち尽くしていらっしゃいました。 人間が人間に為した、非人間性を忘れてはならないとする、あの慰霊碑の前で、あなたの静かな祈りは私にも届きました。 あなたの気持ちに寄り添いたい。 あなたを抱きしめたい。 一人のアメリカ人女性として深く悲しんでいる事を、どうしても伝えたかったのです。 「 アイムソーリー(ごめんさない) 」。 』

そして、戦争終結直後のアメリカ国民への調査では、
原爆投下の支持は85%
一方、2024年の調査では、
原爆投下は正当化されるは56%
でした。
アメリカ国民の意見や考えも、賛否両論を含め様々あります。
そこには、国家としての「大義」と、個人としての「良心」の揺れ動きもあるでしょう。
果たして、
トルーマンが、原爆投下を正当化した一方で、『 原爆は悪だ 』と考えるに至った「キッカケ」は・・・
フィリスが、『 あなたを抱きしめたい 』と強く想った「源」は・・・

では、番組は終了し、締め括りに入ります!