【 大奥でも秘密を抑えられなかった理由 】
大奥では、《 女中法度 》と呼ばれる規則が制定されていました。
その内の一つの規制が次のものです。
《 大奥での事は、他言無用。 露見した場合は厳重に罰する。 》
いわゆる「箝口令」が敷かれ、江戸市中の人々が大奥の内状を知る機会はありませんでした。
故に、残されている史料や記録も少ないという「歴史」に繋がります。
しかし、規則は厳しいものの、大奥では才覚に応じて出世をする事が可能でした。
そして、筆記・実技・面接試験に合格すれば女中になれる為、農民や商人の子も数多く採用されました。

ところで、江戸時代の美人画(浮世絵)では、前期と後期で描かれる女性の装いや雰囲気が違って来ます。
その特徴的な違いが、後期の美人画では、
大奥の正室の顔立ちが描かれている絵が多い(人気があった)
という史実です。
でも、これが何を意味しているか分かりますか???(笑)
大奥では厳しい箝口令が敷かれ、将軍の奥方である正室の顔を拝めるのは、ほんの一握りの人に過ぎませんでした。
そのような状況であるにも関わらず、顔立ちが描かれるようになるとは、
秘密が漏れている
という事です(笑)
なぜなら、女中達も一生涯に渡って大奥で働くのではなく、
退職などで世間に戻った女中達の「口」から・・・
情報などが庶民に広まった!!!
という事です!

では、間髪入れずに、番組『 先人たちの底力 知恵泉 』(Eテレ)から「 シーボルト スレスレすぎる情報収集術 」の回を少し眺めます!
【 諜報員(スパイ)たるシーボルト 】
オランダの都市ライデンには、世界的なコレクションで有名な博物館があります。
この博物館には、江戸時代の日本で蒐集された2万点を超える物品が収蔵されています。
これらの物品を「たった一人」で蒐集したのが、医師・博物学者のシーボルトです!!!
1823年、シーボルトは長崎の出島のオランダ商館に赴任しました。
そして、赴任の役目の一つが、
諜報員(スパイ)
としての活動でした!
そして、活動の中身はオランダにとって有利な貿易戦略を練る為の、日本の資源・産業・美術品などの情報収集が目的でした。
しかし、外国人は出島から出る事を制限され、自由に市中を歩き回る事が出来ませんでした。
更に、出島の目の前には奉行所があり、常に監視されていました。
このような環境も然る事ながら、実はシーボルトは、
日本語の読み書きが、ほとんど出来なかった
という状態でした、、、

【 損して得取れ!? 】
当時、杉田玄白らが記した『 解体新書 』などの「蘭学」が流行していました。
故に、長崎には最新の医学を学ぶ若者達が、全国から数多く集まって来ました。
そこで、シーボルトは出島で医学講義を始めた所、ウワサが広まり、更に数多くの弟子が集まりました。
すると、出島の外(市中)で治療を行う事も、特別に許可されるようになりました。
しかも、当時の日本は本草学(内科や漢方薬)が主流であった事から、
外科手術を施すシーボルトの手技は・・・
神の手(ゴッドハンド)に映った・・・
と言われます。
しかし、治療に際してお金は取りませんでした。
すると、患者はお金の代わりに、
お礼として骨董品などを持って来る!!!
という「流れ」に乗る事になりました!
更に、信頼と人気を得る「波」にも乗り始めました!

【 立っている者は親でも使え!? 】
シーボルトは「名を馳せる」と同時に、長崎郊外に診療所と塾を兼ねた「鳴滝塾」の設立も許可されました。
鳴滝塾は住み込みで学ぶ事が出来たので、地方からの塾生も数多く集まって来ました。
この中には、後に同じく名を馳せる高野長英や伊東玄朴などもいました。
ただ、シーボルトには「別の狙い」もありました。
それが、
自分を師と仰ぐ弟子達に・・・
日本各地の情報を、自分に代わって収集させる・・・
という事でした!
そして、日本各地の文化や動植物や医学など、
多岐に渡るテーマの論文を提出させ・・・
しかも、自分が読めるようにオランダ語で書かせる・・・
という「抜け目がない」手法を採りました(笑)
更に、良い論文を書いた弟子には、
医師としてのステータスを上げる・・・
《 ドクトル 》の称号(証明書)を与える!!!
という「心をくすぐる」手法も併用しました!

言葉を変えると、
立っている者は親でも使え
という事に近いかもしれません(笑)
こうして、当時のヨーロッパの園芸ブームにも目を付け、約2000株の日本の植物をオランダに持ち出し、祖国に莫大な富をもたらしました、、、